【おそ松さん16話】「一松事変」をどう「読む」か

「おそ松さん」16話を観た。Aパートについても言及したいところがいくつか見受けられたが、まずは内容に衝撃を受けて完徹する人も散見されたBパート「一松事変」の内容から、私がどのような文脈を読み取ったかについて記述することにする。

この記事には16話「一松事変」の内容のネタバレが含まれるため、未視聴の方は注意されたし。

※なお、今回の考察では一松・カラ松に重点を置いた内容になっているためおそ松について細かな言及はしていない。この話からおそ松についてもそのキャラクター・役割・機能について考察できる部分が多々あると考えられるが、今回はあえて焦点を絞ることにした。

 

拒絶する一松と受容するカラ松の対比

「一松事変」では、これまでたびたび描写されていた一松とカラ松の類似に加えて、はっきりとした相違も同時に描かれていた。それが「拒絶」と「受容」の姿勢である。

一松は突然帰宅したおそ松の前で「カラ松の服を一度着てみたかっただけ」とは素直に言えないまま、とにかくこの場をやりすごそうと嘘を重ね続ける。その結果として「親友」である猫を傷つけてしまう。窮地に陥りながらも「強気」の姿勢を見せるのは、とにかくその状況を受け入れがたいという「拒絶」からである。また、カラ松が自分の真似をしてその場をやりすごそうとしてくれていることに対してもその優しさ・配慮に対して激しい困惑をみせ、心の中で「逆にしね」と考えている描写を入れることで彼の気持ちが反転していく様子が表現されている。

一方のカラ松は、目覚めたあと困惑しながらも目の前にいるのが(パーカーを見るより前に)一松であることを見抜き、その上で「俺が一松の真似をしてこの場をやりすごす」という選択をした。カラ松がひとまずその場の状況を全面的に受け入れてしまう傾向についてはこれまでの記事でもたびたび指摘してきたが、これもまたその傾向が現れている場面だと考えることができる。

一松が「拒絶」のポーズをとることについてもこれまでの話から指摘することができる。特にはっきり出ているのが9話のデリバリーコント「本当は気まずい鶴の恩返し」だ。一松はこのデリバリーコントにおいて恩返しにやってきた鶴を追い返してしまう。恩を返しにきた鶴を追い返すのは優しさに対する拒絶と読むことができるだろう。9話の「恋する十四松」とこのデリバリーコントを繋げる読み方も可能であるが、ここでは一松は「優しさ・配慮に困惑すると拒絶する」という行動をとることが示されているのが9話のデリバリーコントだ、という読み方をしている。

ここで一松とカラ松の対比を見せるのは「一松事変」というサブタイトルをこの話につけたこととも関わりがあるように思われる。5話Aパート「カラ松事変」を想起させるサブタイトルをつけることによって、カラ松と一松を比較するということを示しているのだ。

カラ松の演技にみる“ズレた”優しさ

カラ松の服を着てカラ松の振りをしてその場をやり過ごそうとしている一松を見かねて、カラ松もまた一松の振りをする、という場面がある。

ショートギャグ集の形式となっている3話「O・S・O(※DVD・Blu-ray表記準拠)」において、カラ松が過去に(兄弟の中で唯一)演劇部に所属していたことがわかる描写がある。3話の内容をどこまで考察に反映させるかについては意見が分かれるところではあるが、私としては「過去に演劇部であった」という設定を一時的にでも付与されたのがカラ松であるというところに何らかの意味を見出したいという考えである。

しかし、過去に演劇部に所属していた割には一松の振りが「下手すぎ」ではないかという指摘がされているようだ。私としてはカラ松があのような演技をするのは、彼の性格上致し方のないことであろうと理解していた。

2話Aパート「就職しよう」において、カラ松以外の兄弟が一松の社会性のなさについて「上司とか殺しそう」といった言葉を用いて語る場面がある。その際、カラ松だけが唯一「俺は信じてるぜ」と発言し、一松から無言で掴みかかられる。前の文脈から考えると、ここでのカラ松の発言は「俺は一松が社会に適合できると信じてるぜ」という、ある種の期待を表明しているような内容だと捉えるのが適当と思われる。

そのカラ松が、一松が日頃表に見せているような闇要素を強調したような演技をするだろうか?上司を殺しそうだとは俺は思わない、お前はちゃんと社会にも適合できるって信じてるぜ、と表明した男が「社会に適合できなさそう」だと人に認識させている一松の言動を真似しようとするだろうか?

「俺は信じてるぜ」と言ったばかりに、カラ松には「一松らしく見せる演技」が出来ないのだ。信じていると言った自分が一松のネガティブな側面を真似することで「裏切り」になるのではないかと危惧し、その結果としてそれ以外の「一松らしい要素」つまり猫との関わりの方を選択して演技することを咄嗟に判断したのではないか。

これはカラ松の優しさを強調する描写でもある。その一方で「おそ松をやり過ごす」という目的を達成する必要のある場面での行動としては不適切だともいえる。一松への思いやりとして「真似をしてやりすごす」という判断を咄嗟にして行動したのは間違いではなかったのだろうが、それに加えて「過去の自分の発言と照らし合わせて一松らしい一松の演技をするのは彼に対する裏切りではないか」という配慮をしたのはズレている。

カラ松は優しい男だ。しかしその優しさはどこか焦点が合っていない。そんなカラ松の性格が浮き彫りになっているいい描写だと私は考えている。

一松の“本音”の変遷をたどる

「一松事変」では一松の“心の声(叫びといってもいい)”が物語をより面白くしている。この心の声だが、エスパーニャンコに本音を暴かれたときと比較してやたらと饒舌すぎるように思われる。つまり、エスパーニャンコに本音を暴かれたときと比較して一松の考え方が変化しているという可能性を考えることが出来るのではないか。

まず5話B「エスパーニャンコ」での一松・エスパーニャンコ(本音)の台詞を引用する。

一松「友達?仲間?には一生いらない」
エスパーニャンコ(以下本音と記載)「ホントはそんなこと思ってないけど」

(中略)

一松「なんでそんな面倒なものわざわざ作らなきゃいけないの」
本音「なんでには友達が出来ないの」
一松「まあ、そんな価値ある奴はいないけど」
本音「まあ、そんな価値自分にあるとは思えないけど」
一松「無駄なんだよな、人と距離を縮めるのが」
本音「怖いんだよな、人と距離を縮めるのが」
一松「労力がもったいない」
本音「自分に自信がない」
一松「平気で裏切ったりするし、アイツら」
本音「期待を裏切っちゃうかも、自分が」
一松「つーか猫が友達とかありえないでしょ」
本音「つーか猫が友達だと楽でしょ」
一松「言葉通じないし」
本音「だから傷付かないし」
一松「ああ馬鹿らしい」
本音「ああ寂しい」
一松「友達なんかマジいらねえ」
本音「友達なんかマジいらねえ。だってにはみんながいるから」

 

(テレビアニメ「おそ松さん」5話Bパート「エスパーニャンコ」より引用)

 「もこの馬鹿みたいに正直に言えたらなァ!!そしたら親友の信頼も失わずに済んだのになァ!!」「今ここで正直に言えるくらいならもうとっくに言ってる!!友達もできている!!」というのが16話で確認できる一松の「本音」と思しき箇所だ。正直に話すことができれば友達もできる、とい一松が認識していることを読み取れるため重要なシーンである。友達になるためには正直にものごとを話す必要があると認識している一松だが、その一方で正直になることで友達を作ることを恐れている。猫には自分の感情を素直に吐露する必要がないのでこれまでうまく関係を築くことができていたが、その場をやり過ごすための嘘によって猫からの信用を損ねてしまうことで一松の心は激しく揺れる。

ここで注目すべきなのは一松が5話でエスパーニャンコによって暴かれている本音と一松事変における心の声とが「自問自答」の関係になっていることである。つまり「どうして僕には出来ないの」という問いかけに対して「今ここで正直に言えるくらいならもうとっくに言ってる!!友達もできている!!」と自ら応答している、ということだ。ここから5話から16話に至るまでの期間に友達が出来ない(作らない)理由に対して一松が向き合ったという変化を示しているという可能性を導ける。

さらに着目しておきたいのは本音と建前の間で揺れる描写の中で、一人称がたびたび「俺」と「僕」で変動している点だ。この点については他の回とも比較しながらよく確認し、別の機会でまた詳しく考察を述べることができればと考えている。

憧れの「アーティスト」をめぐって

カラ松はたびたび尾崎豊への憧れを口にし、屋根の上でギターを弾き語る。

6つ子の中でアーティストに憧れている描写があるのはカラ松だけではない。カラ松ほどはっきりとした描かれ方はしていないが、一松もまたアーティストへの憧れを持っているような描写がある。

4話Bパート「トト子なのだ」では、一松がヴィジュアル系バンドを彷彿とさせる服装をして登場する。トト子から家に招待されたという状況、そして他の兄弟のはしゃいでいる様子から彼もまた浮かれてあのような服装で来訪したと考えるのが自然である。そうすると彼にとって特別な場所に招待されたとき、格好よくキメるときの服装はああいうものなのだ。

また5話Aパート「カラ松事変」では「ヤバイヤバイヤバヤバーイ」と口ずさみながら踊る一松の姿を見ることができる。ここで一松が口ずさんでいる歌の元ネタをGLAYの「百花繚乱」だと指摘している人もいたようだ(出自不明につき情報求む)。

一松のこのような言動からアーティストへの憧れがあることを伺い知ることができる。またアーティストへの憧れからそれを模倣したりする意味でカラ松と一松はやはり似ていると言えるのではないか。また、一松が憧れのアーティストを模倣するということを4話で示したことによって、カラ松(の服装)への憧れがまず最初にあって、そこから真似をしてみたいという思いが生じていた可能性を読み取ることができる。

このことは「カラ松の服装の痛々しさを指摘する」場所としての機能も持っている釣り堀の場面(2話、10話)にこれまで一松が一切関与しなかったことからも指摘することができる。つまり一松はカラ松の服装を痛々しいとは思っていない、批判する立場にはいない存在であったのだ。

 

今回の記事では「一松事変」の一部の描写に着目することで考えられる点について述べた。あくまでも一部しか取り上げることができていないために考察には不十分な点もみられる。今後それを補いながら考察を深めていきたいと考えている。

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