アニメを「語る」ことの難しさに関する個人的な私感

2016年冬クールアニメも折り返し地点が差し迫ってきた今日この頃であるが、皆様いかがお過ごしだろうか。私はというと「おそ松さん」に熱を入れるあまり他のアニメをほとんど視聴できていない状態が続いている。

今日は「アニメを評論する」ということについて私感を述べてみたいと思う。まず、下の記事を見て欲しい。これは今期アニメの第一話放送終了後時点ではてなブックマークのホットエントリーに食い込んでいたブログ記事だ。

この記事のように、放映されている作品をくまなくチェックした上で自分なりに感想を述べたり、ランキング形式で紹介する記事をネット上ではいくつも見ることができる。アフィリエイトと非常に相性がよいということもこのような記事が量産される原因のひとつではあるだろう。しかし、このような記事の中が注目を浴びることから「自分以外の視聴者がどのように作品を捉えているか」という話題の関心が高いということを推測することができる。実際に、私が当ブログで執筆している「おそ松さん」の考察記事も高い検索流入数をキープし続けている。それだけ同じ作品を観た視聴者の考えを知りたいと渇望する人が多いのだ。

しかし、アニメに限らず何かについて論じ、評価を下すということは大変に難しい。特にアニメや映画のように、多様化した作品が次々と創出されていく分野においてすべての作品に対して同じ価値基準を採用した評価を下すことはほぼ無理だと言っていいだろう。

たとえば「ロボットアニメ」に限定したアニメ評論を書こうとしても、そもそも「ロボットアニメ」とは何ぞや、というところを定義するところからして難しい。なぜならアニメ作品における「ロボット」をどう定めるかという認識が人により大きく異なっているからである。具体的な事例としては「新世紀エヴァンゲリオン」の汎用人型決戦兵器(エヴァンゲリオン)をロボットとみなすのか、人造人間とみなすのかという議論が長年続けられている例がいちばんわかりやすいかもしれない。他にも少し考えただけでも「超ロボット生命体トランスフォーマー」をロボットとみなすのか、といった例も挙げることができる。作品を大雑把に分類し、その中で作品を比較しながら語ろうとしたところでまず作品の分類に関する激しい議論が展開されてしまうために「ジャンルごとに語る」ことさえも難しくなってしまっている。

また、私のようにアニメ作品について考察を行った記事に対しても反感を持ち、更新をやめさせようとする人もいる。実際に私は「アニメの考察をやめろ」という苦言をいくつも頂いている。監督やキャストの発言に従えば「おそ松さん」について考察するということが極めて愚かで、かつ作品を鑑賞する態度として相応しくないことである、ということが言いたいらしい。自分の気に食わない評論について難癖をつけて取り下げさせようとするこうした人々の存在は、アニメについて語ることを躊躇わせる障害ともなりかねない。

この「原作(者)至上主義」的なものの考え方については、日本の国語教育において「作者の考えは何か」という問題が執拗に出されることが遠因にあるのではないかと私は睨んでいる。つまり「作者の考え」と一致しない考えについて「不適当」「誤り」とみなす考え方がこうした教育によって育ってしまっている、というものだ。

余談だが、私は両親から「作者の考えは何か」という問題が出題されていたらそれらをすべて「問題作成者の意図は何か」という言葉に置き換えて考えるように指導されていた。いつの間にかこれがすっかり習慣として定着していたから、はっきりとは覚えていないがおそらくは小学校に上がった年齢のときには言われていたはずだ。おかげで私は「原作(者)至上主義」的な考えに陥ることなく思考できるように育った。

閑話休題

アニメについて論じるのは難しい、と思わせる要因についてここまで述べてきた。アフィリエイトとの相性のよさというメリットがあるにも関わらず誰もがこの話題に飛びつかないのはこういったことが背景にあるからだろう。しかもいい加減な「にわか知識」をうっかり披露するだけで「炎上」しかねない分野(それだけ作品を深く愛しているファンが存在するということ)であるために、記事の執筆にはいつでも細心の注意を払わなければならない。

「おそ松さん」に関連する記事を執筆し続ける中で、私はある課題にぶつかった。女性にのみターゲットを絞った作品と決めつけて結論ありきの評価を下す人々の存在だ。こういった人たちに対して作品の魅力や楽しみ方をどのように表現すれば伝えることができるだろうかと考え、作品をあらゆる角度から「読む」ことができるのだということを時間をかけて論じてきた。そこまで私が手間をかけるのは単にそういう「深読み」が好きであるというだけでなく、「おそ松さん」という作品をもっと多くの人に観てもらいたい、楽しんでもらいたいと思っているからである。それだけの魅力がこの作品にはあると信じて疑わないからだ。

また、アニメについて「○話で(視聴を打ち)切った」としながらも該当作品について我が物顔で意見する人々もいる。私はこういう人を見るたびに「あなたが視聴していない回にこそ作品の真骨頂を見ることができたかもしれないのに」ということを考えてしまう。中にはその回で切ったとする○話にこそ大きな意味を見出すことができたのではないかと思われるケースさえある。たとえば「おそ松さん」を「1話で切った」という人々がいる。私はこれに類した意見を見るたび自分の目を疑う。アニメを観る視聴者を煽りながら好き放題に物語を展開し、その上で作品世界を破壊する。この回ほど「おそ松さん」という作品全体を通じた物語の構造をわかりやすく示している回はないとさえ私は考えている。それにも関わらず「女性人気の高い男性声優を起用し、女性に媚を売っている内容であるから嫌だ」といった理由を挙げて視聴を取りやめてしまった人々がいる。それが残念でならない。

大事なことなのでいくらでも書くが、「おそ松さん」において「イケメンに魅了される女性」は滑稽な存在として描かれている。つまりそういう女性に対して媚を売っているどころかむしろ滑稽で笑われるもの(ギャグ要素)であると煽っているのだ。「おそ松さん」ではこういう女性だけでなく「藤井寺球場跡地を夢のような場所」と捉える人々についてもどこか面白おかしく描いている(「おそ松さん」第17話「十四松まつり」より)ことから、その対象としている視聴者層の範囲が広いことがわかる。こういうことをブログに綴ることで作品の魅力について深く掘り下げようと思う人々を増やし、ファンを拡大していきたいと願っているのだ。

アニメについて語ることはこれまでに挙げたような要因があるために難しい。謂れのない誹謗中傷を受けることも少なくない。それでもなお私がアニメについて語るのにはそれなりの理由がある。アフィリエイト(あるいは有料記事)のために書くという行為を否定する気はないが、自分の中で噛み砕き、深められるだけの「なぜ書くか」という理由付けができていないと人の心を動かす文章というものは書けないだろうというのが私の持論だ。

私の「おそ松さん」考察記事を読んで、「私も何か文章を書いてみようと思います」という感想を寄せてくれた方もいる。そういった方々を意識しながら今回このような記事を書いた。参考になるところがあれば幸いである。

ちなみに来期のアニメでは「宇宙パトロールルル子」に期待を寄せている。「おそ松さん」に関する徹底考察と投資を続けつつ楽しみたいところだ。

 

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