松野一松の口からハト、松野カラ松の耳から魚が出ていく描写について【おそ松さんOP映像】

「推し松」である松野一松(と松野カラ松)に関して気になる描写を「深読み」してみたので、考察したことをごく簡単にまとめておこうと思う。今回取り扱うのはテレビアニメ「おそ松さん」のオープニング映像で「松野一松が白いハトを吐き出し松野カラ松の耳から魚が飛び出す」というこの場面。

最初に詫びておくと「口からハト、耳から魚」の理由の考察自体はごく簡素に済ませてある。それよりもこの記事では「なぜ松野一松でなければならないのか、なぜ松野カラ松でなければならないのか」に着目し、二人の関係性についてじっくりとねちっこく記述していくことに重点をおいた。

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▲右端にいる「松野一松」は口から白いハトを吐き出し、左下にいる「松野カラ松」の耳からは魚が飛び出す(参考画像はテレビアニメ「おそ松さん」Ⓒ赤塚不二夫/「おそ松さん」製作委員会より)→公式サイトはこちらから

なぜこのシーンが気になったか。それは松野一松と松野カラ松以外のキャラクターの体内から動物が出てくる様子は描かれていなかったからだ。

これはキャラクターの状態を示す比喩表現ではなかろうか。ではなぜこの二人だけなのか。

松野一松と松野カラ松の関係性 

松野一松と松野カラ松の関係性については以前にも引用させていただいた誰が松野カラ松を殺したか、あるいははなまるぴっぴをもらえなかった子の話 -という記事で哉村哉子さんが詳しく述べている。

兄弟たちが、暗い性格の一松を社会不適合者だと言っていじっているとき、ひとりだけ一松を擁護したのはカラ松です。兄弟の中で最も何をするかわからない犯罪者予備軍と呼ばれていた一松を弁護し、酔いつぶれたらおぶってやり、ふとんの一番端で寝ている一松のとなりでいつも寝ていたのがカラ松です。

カラ松に擁護されるとキレていた一松、カラ松が誘拐されたと知ったとき「めんどくさい」ではなく「カラ松がいなくなって嬉しい」とひとりだけ明確に態度を示した一松、けれど一松はずっと「兄弟がするからする、兄弟が決めたからそうする、兄弟がいるから友達はいらない、自分の考えとか、自分の言葉とか、必要ない、全部みんなに決めてもらえばいい」と思っていた。それなのに一松はカラ松に接する時だけ、「ほかの兄弟」の言葉ではなく「自分自身の態度」を示していた。

一松は知っていたはずだと思います。カラ松がどうして一松を庇うのか。

それはカラ松も一松と同じように弱く虚勢を張っていて本当のことを口にできない人間だからです。

一松はそれを知っていたはずだと思います。だから一松はカラ松にだけ特別に振る舞うことができた。カラ松を泣かせたあとでもカラ松がおんぶして帰ってくれることを、今日も隣で寝てくれることを、いつでも「信じて」いてくれることを、知っていたからです。

「おそ松さん」第5話Bパートに、一松の「本当の気持ち」がエスパーニャンコによって暴露されてしまうシーンがある。カラ松がこの場にいなかったのは、「兄弟である一松の本心をはじめて知って驚く」という描写が、もともと一松から自分自身の態度を示されていた彼には相応しくなかったからだろう。

一松は自分に自信がなく、他人からの期待に応えられないという不安から人と距離を縮めることを恐れている。そんな一松に対して「俺は信じてるぜ」という期待を真正面からぶつけてきたのがカラ松だった。カラ松以外の4人の兄弟は一松を社会不適合者、上司を殺しそうなどと評していたのにも関わらず、である。「カラ松から弄られた時の一松はヤバい」とおそ松は語っているが、これはカラ松が一松の魅力を確信した上で期待を表明していることが原因にあると思われる。

一松がカラ松に対してやたらと攻撃的な(特別な)態度で接しているのは「自分が期待に値する人間ではないと思い知らせるため」だろう。こんなに理不尽な暴力を振るっているのだから、いい加減自分に期待なんかするんじゃない、という具合に。

飛び出していった 「白いハト」と「魚」

松野一松の口から飛び出す「ハト」は平和の象徴として大変よく知られている。単純に考えれば「平和の象徴が口から飛び出す」つまり「失言などが原因で平和な状態を喪失する」ことを比喩しているように考えることができそうだ。しかし、本当にそれだけだろうか?

それぞれの生き物が放出されるのが「口から」「耳から」という点にも意味があるように思われる。口から出るハトは恐らく「何らかの発言(台詞)」を意味しているものとみていいだろう。では耳から出る魚はどう理解すればよいだろうか。「耳から入る」ということはつまり「聞く」ということであるから、その逆は「聞き逃す」ことだ。つまり耳から飛び出す魚は「何らかの聞き逃したこと」を意味しているものとみていいだろう。こうして考えるとそれぞれの身体から出て行く「ハト」「魚」はそれぞれ「一松が言ったこと」「カラ松が聞き逃したこと」に置き換えられる。たとえば5話においては(一松が直接言ったわけではないが)「一松の本心」がその両方に該当する。カラ松は常に一松から「自分自身の態度」を示されているためにその本心を知ったところで別段驚きはしないだろうが、彼が思っていることをエスパーニャンコを通して聞く絶好の機会は逃している。

また、「ハト」と「魚」には「群れ」で行動するという特徴があることから、「ハト」「魚」が体内から体外へ出ていくという描写が「群れを出て行く」という比喩ではないかという考え方もできる。カラ松は兄弟たちから忘れられるという形で一度「群れ」を追い出されているのでこれは当てはまっているといえるのではないか。一松はというと6つ子の中で誰よりも兄弟という「群れ」に従うことに依存しているので、「口からハトが出ていく描写」を「群れを出て行く」という比喩であると理解した場合には兄弟からの「自立」という今後の展開を示唆している可能性がある。

ちなみに日本には「ハト」と「魚」を同時に見ることのできるイベントがある。それが「放生会」だ。魚や鳥獣を自然に放つことで殺生を戒めるという宗教儀式である。九州生まれ九州育ちの私にとって「放生会」は馴染み深い行事で、「ハト」と「魚」ですぐこれが連想された。しかしこれは偶然にすぎないような気もするので、「口からハト、耳から魚」の理由を考察する際に取り扱うことはしなかった。が、せっかく考えついたことなのでここにメモという形で残しておく。誰かこの視点から考察してはくれまいか。

【20日12時20分追記】

松野一松の口からハト、松野カラ松の耳から魚が出ていく描写について【おそ松さんOP映像】 - だれも知らない

犬がいたらなぁ

2015/11/20 12:00

というブコメを頂いたので追記。
おそらくこの指摘の元になっているのは朝日新聞社の小原敦氏による論考であろうと思ったのでその記事を紹介(違っていたら申し訳ない)。

asahi.com(朝日新聞社):犬でも分かる押井守「犬・鳥・魚」講座その1 - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能

朝日新聞デジタル:「犬・鳥・魚」講座その2 ヒロインは不吉だ - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能

朝日新聞デジタル:「犬・鳥・魚」講座その3 窓が割れる理由 - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能

押井守作品における「犬・鳥・魚」というモチーフをどう読み取るべきか論じており、中でも講座その2では以下のような内容が示されている。

 さて押井作品に頻出する三大象徴「犬・鳥・魚」は何を意味するのか? 私の頭の中で出来上がった分類表はこんな感じです。

〈鳥〉=言語、精神、神、天使、少女、子ども 

〈犬〉=仲間・主人を求める者、さすらう者、男

〈魚〉=本能、夢、無意識、性欲、身体、衝動、暴力、女、母、妻

 この分類を基に押井作品を見直すと、〈鳥〉と〈魚〉が結びついて危機に陥った世界に〈犬〉が現れ〈鳥〉と〈魚〉を分離(除去)して平安を取り戻そうとする、という基本構造が浮かび上がってきます。

これが押井守の作品を読み解くために書かれた論であること、さらに〈犬〉の話を無視して考える(!)のであれば、言語を意味する〈鳥〉である白いハトのことは「一松が言ったこと」とみなしてよいように思える。またカラ松の耳から出る〈魚〉は女、母の喪失を意味しているという考え方ができる。「おそ松さん」の世界において「女、母」を失うということは「扶養の対象から外れる」ということとほぼ同義で、たとえば5話では梨の配給に際して母が言った「ニート達」にはその場にいなかったカラ松が含まれていない、つまり一時的にカラ松は扶養の対象から外されている。これは前話でカラ松が母に対して「扶養に値する息子である」アピールにことごとく失敗していることが関係したものと思われる。

もっとも、先に書いたようにこれは押井守の作品を読み解くために「犬・鳥・魚」モチーフを取り上げた論であるから、「おそ松さん」の世界にこれを当てはめるのはあくまでも「参考」程度に留めておきたい。

しかしながらおもしろい指摘だと思ったのでこちらを紹介させてもらった。

 

【24日1時追記】

この記事の続きを書いた。こちらでも「犬・鳥・魚」モチーフについて取り上げる。

【2016年1月16日0時追記】

2クール目OPについても似たような描写がみられたので考察を行った。

 

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