松野十四松の幼さ、狂気は演技によるものか?【Ask.fmに寄せられた質問から】

松野十四松の幼さ、狂気は演技によるものか?

初めまして、そして本当にお疲れ様です。いつも貴方様のおそ松さんに関する考察をとても興味深く読ませていただいております。自分も今卒業論文執筆の真っ最中であり、yurico様の纏まった美しい文章を見ては自分もこんな風に纏めることが出来ればと思ってしまいます。 「十四松の恋」での十四松、またこれは番外編に当たるので違うかもしれませんが「なごみ探偵おそ松」での十四松は比較的常人のような振る舞いをしており、ここから見るに十四松はあえて狂人もしくは幼く成長していない姿を演じているような印象を受けたのですがyurico様はどう思いますでしょうか? 既にネット上で議論され尽くした様な質問で申し訳ございません。
Ask.fmに寄せられた匿名希望さまからの質問より)

質問ありがとうございます。そして卒業論文の執筆中とのこと。私は「どうせ間に合うから」とかなりゆるゆる進行でやっているところなのですが、普通はもうラストスパートをかけている頃合ですよね。お疲れ様です。一緒に頑張りましょうね。

「十四松の恋」については一応考察記事をすでに掲載しているのですが、これはどちらかというと「彼女」を中心に書いたもので、十四松のことにはあまり触れられていませんでした。ちょうどいいところにこの質問が来たので、ここで私なりの考えをまとめておこうと思います。

8話Aパート「なごみ探偵おそ松」は、6つ子たちが「6つ子ではない」物語であるというところが鍵だと思います。登場する鑑識官・松野十四松も「松野家の6つ子ではない」のです。そして9話Bパート「十四松の恋」における十四松も、他の兄弟たちから温かく恋路を見守られながらも、基本的には兄弟から離れて動いています。

要するに、松野十四松は「兄弟から離れたとき(兄弟から切り離されたとき)」に比較的常人のような振る舞いをする傾向があるのだと思います(個人的にはおそ松が他の兄弟が十四松を尾けるのを制したのも、このあたりに一因があるのではないかと妄想しています)。この考え方でいくと、7話Aパートのスタバァでのシーンでひとり床にこぼれたコーヒーを拭いていることも説明ができそうです。

では、その「兄弟とともに過ごすとき」にみることができる幼さ・狂気は演技によるものなのか。私はこれを「演技ではない」と考えています。

10話において、松野おそ松が松野カラ松に対して「お前は変わらなくていいよ」と発言する場面があります。この会話の場面から読み取れるのは、松野おそ松が「毎日を楽しく過ごすためならばキャラクターを変更する必要なんてない(周りの人の感覚が馬鹿になればいい)」と考えているということです。松野おそ松は自分を含め6人の兄弟でいかに楽しく毎日を過ごすかということにかなり重点を置いています。そして、松野カラ松の痛々しい言動も面白い毎日のために必要な要素である(とみなしている)から、いまさら改めなくていいと彼をすっかり丸め込んでしまうのです。

とにかく手数が多いのが松野十四松。どんなに滑っても気にせずギャグを展開し続けるのが彼の個性であり、兄弟の中での役割です。誰にも予想のできない言動は、カラ松とはまた別次元の面白さを有しています。そして、おそらくおそ松はカラ松に対して言ったのと同じようなことを十四松に対しても過去に言い聞かせたことがあるのだろうと推測します。そしてその結果、十四松は兄弟の中でそうした役割を保って動くことを自然と身につけていったのではないかと思います。

十四松自身には演じている気などまったくない(つまり、あえて演じているわけではない)のでしょうが、他の兄弟と過ごす中ですっかり狂人じみた言動をとる役割が定着してしまい、比較的常人らしく礼儀正しい(←先に挙げた例のほか、2話A、5話Bでのしっかりした挨拶など)という彼の本来の性格が埋もれてしまった、というように私には見えます。そしてその本来の性格が「兄弟から切り離される」ことで可視化されやすくなるのだろうと思います。

彼氏とも少し話をしてみたのですが、「比較的常人らしく礼儀正しい」方がより素の状態に近いのではないかというところで考えが見事に一致したので、意外とよくある感想なのかもしれません。

今後もこの傾向がみられるのかどうかはわかりませんが、兄弟との距離について注視しつつ動向を温かく見守ってゆきたい所存です。

 

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