アンチと「批判」「非難」について思うこと、少々。

10日前にこのような記事を書きました。

この記事を書くきっかけとなる意見を寄せてくださった須藤玉露さんとTwitterであれこれお話をさせていただく中で、少し面白い話が出ました。

カラ松に対する一松の態度が、ファンからアンチに転じた人のように感ぜられる」というものです。これは須藤玉露さんのご意見なのですが、私もこれにとても共感しました。一口に「アンチ」といっても、いろいろな方がいます。この場合における「アンチ」は、どんな形でもいいから接触を図りたい・相手からのリアクションを引き出したいという目的でアンチ活動を行っているというような方、という意味で取っていただければと思います。Twitterやブログコメントなどに過激なコメントを書き込んで故意に炎上させようとするようなタイプのアンチですね。相手からのリアクションを引き出すために暴力的な言動しか取ることができないという感じがなんだか似ているように感じたわけです。もちろん、先に述べたようにアンチといってもいろいろな方がいるので「一松はファンから転じたアンチ活動をやっている」なんて暴論を語るつもりはないですよ。本当に相手に対して強い憎しみを感じているのであれば「無関心」を貫く方がよほど効果的なので、それをしないだけ、いやむしろそういう言動を取ってでも反応を返してほしいというだけの好意はあるはずだと考えました。

実家に住んでいる頃はアニメ・漫画作品などのキャラクターの格好をするコスプレを趣味として、それなりに活動していました。随分と熱心なアンチの方から貴重なご意見をお寄せいただけるという機会に恵まれていた期間でした。さきほど、アンチとして活動している方にもいろいろな方がいると書きましたが、これはこのときの経験に基づく個人的な感想です。

Ask.fmのアカウントに対して質問を寄せてきてくださった方の中に、「感受性が人一倍強く、弱い人間という自覚があります。他の人の意見というか、批判をされるのが嫌」ということを打ち明けてくださった方がいました。私はこの方の寄せた質問に回答する際に以下のようなことを書きました。

語感こそ似ていますが、「批判」と「非難」とではまったく意味が異なります。「批判」とは根拠を示しながら誤った点を指摘して、改善を求めることをいいます。それに対して「非難」とは相手の過失などを感情的に責めるような行為のことをいいます。

(中略)

まず相手の発話を注意深く聞き取って、それが自分にとって聞き入れなければならない性質(「批判」)のものか、そうではない性質(「非難」)のものか、これを見極められるようにしましょう。感情にまかせてあなたの悪所を責め立てるような意見に耳を傾ける必要はありません。

私たちがごく簡単に「アンチ」という言葉で一括りにしてしまう方たちには、「批判」をしている人と「非難」をしている人のどちらもいるのが実情だと思います。少なくともこれまでに生じた私の「アンチ」の方々はそうでした。

具体例を挙げて確認してみます。

「写真の加工が下手くそ。ぼかしツールの使い過ぎで顔がのっぺりしている」
これはどうでしょう。「批判」だと捉えていいと思います。このような書き込みが執拗に掲示板に書き込まれるようになって、写真の加工の仕方を変えてみました。また、顔が映らないような構図での撮影にも力を入れるようにしました。結果的に写真のクオリティが向上しましたので、このコメントを無視しないでよかったと今は思っています。

「そこにいるだけで気に食わない」
これはただ感情に任せて書きこまれている「非難」ですよね。こんな意見(ともいえないものですが)を聞いてアクションを返してあげる必要はありません。無視しましょう。

……何度も書きますが、私の個人的な意見として言わせていただくと、「批判」を行っている方の意見は無視すべきではないです。「アンチ」として大雑把に括ってしまうとなんだか嫌な印象を受けますが、実は「批判」を行っているアンチの方というのは直すべきところをしれっと教えてくれているわけです。だからまずはよく話を聞く。耳を傾ける。そのうえで直すべきところがあれば直して、謝るべきところがあれば謝る。

こうした理由から、盲信して周りがまったく見えていないファンが増えるよりは、「批判」を行うアンチがたくさんついた方が「旨み」はあるのが実情だと思います。

ちなみに私は「私はこう思うんですが」という意見をたくさん出してくれるファンの方がたくさんついてくれたら嬉しいなあと思いながらのんびりと記事を書いています。

そういえば当ブログのコメント欄について。新年が明けてから再び解放しようかなーと考えています。なかなか返信はできないまでも、寄せられたものはすべて楽しく読ませていただいておりましたので(コメントがつかないとさみしい)。

さらに余談ですが当ブログ、訪問者の1%の方がどういうわけか「yurico15 頭おかしい」という検索ワードでご来訪されるんですよ。そこでお手数おかけしてしまいますが、ぜひおかしいところについて根拠を示しながらご教授いただければと考えています。コメント欄を解放した際にはぜひよろしくお願いいたします!

 

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理性的に自分の言動をコントロールするには【Ask.fmに寄せられた質問から】

理性的に自分の言動をコントロールするには

感情的な人間が、理性的に自分の言動をコントロールするにはどういった心がけが必要だと思いますか。思い切り言えなかった不満と、あんなこと言うんじゃなかったという後悔で落ち込んでしまうことが多いので悩んでいます。もっと理性的に行動できればと思うけれど、、、
(Ask.fmに寄せられた匿名希望さまからの質問より)

質問ありがとうございます。私自身が感情的な衝動に任せて行動してしまうことの多い人間なので、あなたのためになる回答ができるかどうか自信はありませんが自分なりに思うことについて書かせていただきますね。

ちなみに私の場合はあなたと違って「思い切り言えなかった不満」を抱えることはほとんどありません。思い切り自分の抱えている不満について意見してしまいます。ただ「あんなこと言うんじゃなかったという後悔」は感じますね。何せ不満がすべて消え失せるほどに思い切り自分の意見を述べてしまいますからね。自分ではもう少し抑えたいと思っているところです。

理性的に行動したいのであれば、感情をうまくコントロールできるようになる必要があるでしょうね。強い衝動が生じても、ぐっと堪えて落ち着いて意見するようにする。これは私自身も実践できていないことなのであくまで理想を語っている話なのですが。

最近私が心掛けていることについて話します。

私はこのごろ、相手の話を聞きながら頭の中で自分の意見を文章に組み立てることで気を紛らわせる練習をしています。とにかくその場で考えたことを考えるまま発言するとエスカレートしてしまうだろう、と考えたんですね。ですから相手が話しているうちに(どんなに自分にとって腹の立つ発言があったとしても)、頭の中で自分の考えを理路整然とした文章となるように組み立てることを意識します。それでもなお相手の話の合間に(ひどいときにはそれを遮ってでも)自分の意見を交えた発言をしてしまうことがあるので、これはまだ反省が必要なところではあります。今後改善すべき課題ですね。

そういう出来事を経験した際、そのことについて後日文章などを書き起こしておくのもいいと思います。感情の動きを思い出しながら記述して、どうすればよかったかの反省を書き添えてみたり。議論の内容そのものについてもできる限り詳しく書いておけば、同じ話題が後日出た際の対応に活かすことができると思います。記録をとることで改善したところ、今後改善が必要となるところが可視化できます。

私も理性的に行動がとれるようになりたいと日々願っていますが、ほんの数日の努力ではどうにもならない問題です。あなたの気持ちがよくわかるからこそ言いにくいことではありますが、一生こういう衝動と付き合っていくつもりで向き合う覚悟が必要なのかもしれないと思っています。とりあえず自分の感情がそのときどう動いたのか、自分はどう考えるか、ということを詳細に書き残すことで良かったところと悪かったところの振り返りを行うのがいちばん現実的な方法ではないかと思います。

参考になるところが少しでもあれば幸いです。一緒に頑張りましょうね。

 

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友達に自分をさらけ出すことができない【Ask.fmに寄せられた質問から】

弱みを握られる、見下されることが怖くて自分をさらけ出せない

ゆりこさんこんにちは。前からブログで一松が好きだということを知っていたのですが、実は、私も一松が好きで、親近感を抱いてました。一松と、似ているところがあるところも、とっても共感します。私は、内弁慶な性格を直したいのですが、なかなかできません。友達に、自分をさらけ出すと、弱みを握られるとか、見下されるとかそういうことが怖いです。そういう性格のためか、親しい友人がいません。どうしたらいいでしょうかよろしくお願いします。
(Ask.fmに寄せられた匿名希望さまからの質問より)

こんにちは。回答までお時間を頂いてしまい申し訳のない限りです。

一松に親近感を持つという気持ちを共有できていること、嬉しく思います。彼のことはどうしても他人に思えないんですよね。とても自分に似ていると感じます。

さて、あなたは弱みを握られるとか、見下されるということが怖いということですが、これは大変自然なことだと思います。私も同じですよ。誰しも(程度に差はあれど)他人から見下されたりはしたくないと、恐れの気持ちを持っているのではないかと思います。ですから、そういう考え方を持っているということに対して否定的な気持ちを持つ必要はありませんよ、ということをお伝えしておきますね。

そもそも、友達だからといって自分のすべてをさらけ出している人は限りなく少ないのではないかなと想像します。少しずつ、「これなら話せる」ということから話していけばそれでいいと思います。言いたくないことまで言う必要なんてありません。

もっと言えば、「この人にこれを言っては見下されるかも」という相手に対して自分の内面を吐露することは避けた方がいいとさえ思います。自分のことを見下すかもしれないような相手を友達にする意味が私にはわかりません。そういうものは信頼がおける相手であると見定めたうえで、なおかつ話しても大丈夫なところまでを話すのがいいと考えます。それはあなたがあなた自身を守るという意味で必要な「自衛」です。

私はブログにおいて、松野一松は弱い人間だという話を書きました。そのため、その弱い自分が傷つかないようにあのような態度をとっているのではないかと考えているのです。誤解しないでいただきたいのは、弱い人間であることを否定的に書いているわけではないということです。個人差はありますが、誰でも自分に対して向けられる非難の言葉には恐れを感じるものと思います。そうした言葉から自分を守るために反射的にとりうる言動について、それを否定することは自分をますます傷つけることになるのではないかと私は考えています。非難の言葉を向けられることへの畏怖から、人との深い関わりを持つことを避けることはむしろ自然なことであるというのが私の考え方です。

ではどうすればいいか。インターネットを通じた人間関係の構築はあなたのような人にとって(利用の仕方によっては)とても居心地の良いものとなりうる可能性があります。

今の私とあなたの関係を考えてみましょう。

私とあなたは今「松野一松に親近感を持っている」という共通点を有していますよね。でもこれは匿名で質問されているあなたが、自ら「このことは打ち明けてもいい」と思って公開したことでわかったことです。もしあなたがこれを打ち明けてくれなければ、私はあなたという人物について何も知らないままでいることもできました。

インターネットでは(原則として)現実世界とは違う名義が使用されます。匿名のまま書き込みを繰り返すユーザーも多く存在します。自分から公開しなければ相手に自分のことを何も知らせないまま一方的に物を言うことさえできてしまうのです。

自分のことを打ち明けないまま人とのコミュニケーションを行えることが、インターネットを利用することのメリットでもありデメリットでもあるところです。これをどう使うかによって、あなたの「親しい友人がいない」という悩みが解消される可能性はあります。練習だと思ってインターネットで誰かと繋がってみる、というのも手段として挙げられるのではないかなと思います。

何か参考になるようなところがあれば幸いです。よければまたお話を聞かせてください。

 

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インターネットで小金を拾い集めるためのセルフブランディングの話

ちょっとした縁で、あるアフィリエイターの方とたびたびクソリプ(※取るに足らないようなつまらないやり取り)を交わし合う程度の間柄になりました。その方が本日、ブログを始めたというので早速読んできました。

Ask.fmでたびたびセルフブランディングに関する質問をいただいていたこともあり、ちょうど「インターネットで小金を拾い集めるためのセルフブランディング」というテーマでブログ記事を一本書いてみようかなと思っていたタイミングでした。いい機会なのでこの方とそのブログの内容について触れつつ先に挙げたテーマに関する私の考えについて記述することにしました。

記事の最後に「まとめ」を示しておいたので、長文なんて読みたくないという方はそこだけでも読んでいただけると概要がわかると思います。

インターネットによる個人の情報拡散と「責任」のゆくえ

個人の情報拡散力が高まり、情報発信を収益化し「プロ」として食べていける時代になりましたが、YOUTUBER、実況者、プロブロガー、生主、色々な呼び方がありますが、全てアフィリエイターです。
マスメディアではありません。ちっぽけです。ですが、ちっぽけだからこそ良いとも言えます。
マスメディアには大きな責任が伴いますが、個人が行う情報発信の「自由と無責任」はある程度担保されるべきだと考えています。

プロゲーマーKUNが多方面に敵をつくりました | YOUTUBERも実況者も全員しょうもないアフィリエイター より引用

この方の指摘通り、インターネットによって個人の情報拡散力は高まっているといえると思います。ただ、その一方で「『自由と無責任』はある程度担保されるべき」という考え方には疑問を呈します。こういう考え方を否定するつもりはまったくありませんが、少なくとも私は個人が行う情報発信に対しても「責任」はきちんと問われるべきだと考えています。

私は「炎上商法」は否定しません。頓珍漢な言動を繰り返して注目を集め続けることもひとつのビジネスのあり方だ、と理解します。だからといって「なんでもやっていい」ことにはならないというのが私の考えです。権利侵害の問題とかね。

大多数が匿名であるうちは「名乗ったもの勝ち」

「YOUTUBER、実況者、プロブロガー、生主、色々な呼び方がありますが、全てアフィリエイターです」とアフィリエイターであるKUNさんは述べています。実際、広告収入で小金を拾い集めているのであればそういう言い方でこれらを総括することは可能であると私も考えます。

ただ、大多数が匿名である界隈においては高らかに「名乗ったもの勝ち」なのです。

「個性を強調することで自分の価値をアピール」という考え方そのものは極めて無個性的です。非常にありふれています。しかしながら、大多数が匿名で利用しているインターネット上ではこうしたありふれた考え方はまだ通用します。名乗らない限り、どういう存在であるか認識しづらいからです。このことを指して「名乗ったもの勝ち」と書きました。

黙っていれば、私はただの「yurico15」という機械的に名前を登録しただけのユーザーにすぎません。しかし、「はてなブログで『おそ松さん』の考察記事を書いているブロガーのyurico15(ゆりこ)です」と名乗り続けると、不思議なことにそれなりに認知が広がっていきます。「ああ、あの『一松の口からハト』の記事を書いた方ですね!読みました!」なんて言われるようになればこちらのものです。私がどういうコンテンツを提供しているかが確実に伝わっているからです。

何が言いたいかというと、繰り返し自分をアピールすることでの「売名」はインターネット上ではまだ有効なのです。インターネットを利用しているユーザーの大半は現実とは違う名義を用います。つまり顔出しもしないし実名も公開しない。

積極的に自分がどういう人間であるか、どういうコンテンツを提供できる存在であるか、これを繰り返しアピールすることで効率よく自分の存在を知らしめることが可能です。これにより、その人が提供するコンテンツ目当てのファンを一人ずつ確実に増やしていきます。

タイトルにある「セルフブランディング」とは自分自身をブランド化して、「私はこういう商品を提供できますよ」とプロモーションする能力のことです。これはインターネットで小金を拾い集める際にはとても有用な方法です。自分が提供する商品そのものを目当てにする客を獲得しやすくなるからです。

以上の理由から、アフィリエイターであるという自覚を持っていたとしても「元FPSプロゲーマーの○○です」と名乗り続けるのが効率的でよいのではないかと考えます。もっとも、先に引用した記事を執筆されたKUNさんはすでにこれを実践されているようですが。

ニコニコ動画に「奨励」されているだけではいけない

ニコニコ動画では「クリエイター奨励プログラム」や「有料チャンネル」といった、小金を拾い集めるのに便利なサービスが提供されています。プレミアム会員やチャンネル登録会員から月々徴収するお金を、運営側の取り分が差し引かれた上でコンテンツ提供者に分配されるような仕組みになっています。

こうした大手サイトの提供するサービスは、自分の存在を広く知らしめることができる点では評価できます。しかしながらその一方で、自分が持っているすべてのコンテンツを大手サイトの提供するサービス内で“出し切る”ことは長期的にみてリスクが高いと考えます。おすすめしません。

とにかく一円でも多く小金を拾い集めたいという方は、自分の提供できるサービスの一部を大手サイトで、それ以外を自分の個人サイトをはじめとした外部サイトで提供するようにするとよいと思います。

なぜなら

  • 同じコンテンツを提供
  • 同額を徴収
  • 同じ数のファンを保持

という状況であるなら、(サービス提供会社の取り分が差し引かれない分)個人サイトでやったほうが効率よく儲かるからです。大手サイトから個人サイトへファンを連れ出していきましょう。

ここではニコニコ動画という具体例を出しましたが、要は大手サイト一社だけを利用するのではなくて外部へなわばりを広げたほうがより効率よく稼げると思いますよ、というお話です。リスク分散という観点からみてもそうしたほうがいいと私は考えます。

こうしたサービスを提供する企業の経営があるとき傾いたと仮定しましょう。このとき企業側は、自社の取り分を増加することで持ち直しを図るだろうと推測されます。今はよくても、これから先、企業の経営方針が変わることで自分の取り分がごっそり減る、ということも予想されるわけです。

 

まとめ

  • 個人の情報拡散に対しても「責任」は問われて然るべき(だとyurico15は考えている)。
  • インターネットで効率よく小金を拾い集めたいと思うなら、「自分がどんなコンテンツを提供できる人間か」を積極的に広報する(セルフブランディングを実践する)のが効果的。これにより提供されるコンテンツそのものを求める客を獲得しやすくなる。
  • 効率よく稼ぐ、リスクを分散するという2つの観点から大手サイトが提供するサービス内で自分の持つコンテンツのすべてを出し切ることは避けたほうがよい。

以上です。
最後になりましたが、この記事はあくまでも「小金を拾い集める」ことに重点をおいて執筆したものであるのでそのあたりはご了承ください。

 

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なぜ松野カラ松は松野一松との会話を避けるのか

今回の記事は考察というか私なりの解釈をつらつらと述べる「感想」記事になります。肩の力を抜いて気楽に読んで頂ければ幸いです。

私のブログの訪問者の多く(約7割)は検索サイトからやってくる方々です。そしてその多くが「一松 考察」という検索ワードで足を運んでくださっているようなのです。おそらく例のOP考察記事を目当てに来訪されている方が多いのだろうと思います。

そんな状況なので、そろそろ私の「推し松」でもある松野一松について思いの丈をぶつけた記事をいくつか書いてみようかと思い立ちました。ただ、それにより読者離れが起こるのも正直怖いのでライト層にも読みやすいように、できる限り冷静に話を展開していきたいと思います。

それに先立ち、Twitterで「松野一松について、ブログで触れて欲しい事柄はありますか」という声かけを行いました。するとフォロワー様から以下のような意見を頂きましたので、今回はそれに関する私の解釈について述べていこうと考えています。

なぜ松野カラ松は松野一松との会話を避けるのか

一松もですが、カラ松があんなに一松と喋ろうとしない事に関してゆりこさんなりの解釈など聞かせて頂けると楽しいんですけれども戯言をすみませぬ
(須藤玉露さんからのご意見より)

私なりの解釈でいいそうなので、思ったことをそのまま書こうと思います。以下に示すことはあくまでも一個人の感想なのであまり間に受けないでくださいね。

私にはカラ松が一松と「喋ろうとしない」というより、「一松に何を言っていいのかわからない」というように見えます。そしてそれは2話でおそ松が言ったことが多少なりとも関係しているのではないかな、と睨んでいます。

2話でのおそ松の発言について触れる前に、10話冒頭の釣り堀でのおそ松・カラ松のやり取りについて振り返っておきます。10話冒頭では周囲の人から「痛い」と言われることについて、真剣に悩んだ末におそ松に相談するカラ松の姿が描かれていましたね。この場面から読み取れることがいくつかあります。

・松野カラ松は悩み事を松野おそ松に打ち明ける
・松野カラ松は周囲の人間の発言を気にしている
・松野カラ松は「痛い」の意味を履き違えている

では、これを踏まえたうえで2話のおそ松の発言について確認します。2話Aパートにおいて、松野おそ松は「カラ松からいじられたときの一松はヤバい」と発言しています。10話でのやり取りを前提としながらこの発言を深読みすると、いくつかの可能性が見えてきます。まとめました。

可能性①松野カラ松が松野おそ松に対し「俺が何か言うと一松が怒る」などと相談している
可能性②松野カラ松は自分が何か言うと一松が過剰に反応することを気にしている
可能性③松野カラ松はここでおそ松が言った「ヤバい」の意味を分かっていない

個人的に可能性が高いかなと想像しているのは②です。一松から首根っこを掴まれたときのカラ松が「何も言わない」「困り眉になっている」ところから、自分の発言に対して過剰に反応されることを気にしつつも「それがなぜなのか」までは理解できていない様子が伺えます(そのため、「ヤバい」の意味を分かっていないという可能性③も当てはまっていると言っていいかもしれません)。

とにかく松野カラ松は、松野一松がなぜ自分の発言に対して過剰に反応するのかについては想像が及んでいないものと思われます。私は10話でのおそ松・カラ松のやり取りを見る前まではカラ松には一松の考えがある程度予想できているものだと考えていました。実際、過去の考察記事では「カラ松は常に一松から『自分自身の態度』を示されているためにその本心を知ったところで別段驚きはしないだろう」などと書いてきました。

訂正します。カラ松は一松から自分自身の態度を示されていますが、一松の考えていることを正確には理解できていません。そのため、一松に対して何を言っていいのかわからず狼狽えてしまっているのだろうと思います。その結果として、一松がカラ松に対して過剰な反応を示したとしてもそれに対する返答ができないというわけです。

また、カラ松は2話で「カラ松からいじられたときの一松はヤバい」と言われたことそのものも気にしているのではないかと考えています。「おそ松くん」としてテレビアニメに復活した彼らが暴れに暴れまくった「おそ松さん」旧一話では弱井トト子の財布を拾った一松に対して「それは俺が拾った……!」とカラ松が叫んでいるからです。少なくともこの時点ではカラ松の側から一松に働きかけることがあったということがわかります。このことから、「ヤバい」の意味を正確には理解できていないなりに、カラ松がおそ松の指摘(「カラ松からいじられたときの一松はヤバい」)を気にかけていた可能性が考えられます。「よくわからないけど『ヤバい』なら俺はどうすればいいんだ」とずっと悩んでいたのではないかな、と。

会話を避けていたのは一松の方である

会話を避けているのはむしろ一松の方だろうと私はみています。「カラ松に対して言葉で正確に自分の考えていることを伝えること」を徹底的に避け、暴力的な言葉や態度でもって何かを伝えようとしているように思われるからです。

松野カラ松と、松野一松はとてもよく似ています。6つ子の兄弟の中でも特別似ていると私は思っています。実際、この二人がよく似ていることを示唆する描写もアニメの中からみることができます。過去記事では「第2話において松野カラ松と松野一松だけがビールでなく焼酎(水?)を飲んでいる」ということを指摘しました。また7話Bパートのトト子のライブシーンでは、カラ松と一松だけ腕のクロスのさせ方が同じで、ほかの4人とは逆になっています。

人との関わり方に関しても、カラ松と一松は「虚勢を張る」という共通点が見て取れます。そして二人ともそういう態度をある程度意図的にとっています(カラ松のほうがやや無意識でやっているところは多いように見受けられますが)。彼氏とも少しこの話をしたのですが、兄弟の中では比較的「弱い人間である」ということ、そしてそれを隠すために「虚勢を張っている」というところがこの二人のよく似ているところではないかという考えを持つに至りました。

過去記事で、私はこんなことを書いていました。

ここで松野カラ松と松野一松の関係性に注目して「おそ松さん」を視聴していた方々はピンと来ることがあると思う。松野カラ松と松野一松が会話をしている場面は実はほとんどないということだ。掴みかかる、バズーカ砲を撃つといった手段を用いて何らかの意図を伝えようとしている場面はあっても、その間には会話がほとんど存在していない(第7話放送時点では)。

一方、松野一松と松野十四松との間ではたびたび会話の場面を見ることができる。このことから松野一松は松野カラ松に対しては会話で何かを伝える必要性を感じていない可能性が考えられる。

松野十四松の特異性が松野カラ松と松野一松の関係性を紐解く可能性について  より

今もう一度振り返ってみて、「会話で何かを伝える必要性を感じていない」という部分はちょっと違うなあと感じました。カラ松と会話することへの恐怖に近いような、強い抵抗感を一松が抱えているような気がしてきたからです。なので先ほどは「カラ松に対して言葉で正確に意図を伝えること」を徹底的に避け、という表現を使いました。

5話Bパート「エスパーニャンコ」の話の中で、一松はカラ松を除く兄弟の前で自身の本当の気持ちを暴かれてしまいます。兄弟の前で本音を暴かれた際の動揺した様子を見る限り、「兄弟にさえ隠しておきたかった」本音であることは間違いありません。そして、その場に「自分とそっくり」なカラ松はいなかったのです。一松にとって、カラ松はいくら自分と似ているといったところで「痛い」の意味もよくわかっていないような鈍い男、自分の本心が気取られることはないと思っていたところは多少なりともあっただろうと考えます。でも、あの場にカラ松がいたなら話は別です。自分とよく似た存在であるカラ松に最大の弱点を曝け出すことになります。

一松は「他人からの期待を自分が裏切るかもしれない」と考えています。そして、そういう状況に陥ることで自分が傷つくことのないように兄弟以外の人間との関わりを頑なに持とうとしません。しかもその兄弟の前でさえ「他人が自分を平気で裏切る」ことを理由に友達を持たないと虚勢を張っていました。

一松はカラ松と自分が似ていることに気付いているのかもしれません。だからこそ、ちょっとした発言から自分の本心を気取られまいとかなり力んでいるのかなと解釈しています。結果としてそういう考えが理不尽に思える暴力的な言動として表に出てくるというわけです。

実際、「まともに人と会話できないくせに」という評価を下している十四松に対しては和やかに会話をしている場面を見ることができます。これは十四松が相手なら大丈夫、と安心しているからだと考えれば納得がいきそうです。

以上の理由から「一松がカラ松に対して理不尽にも思える暴力をたびたび繰り返すという非常に強気な態度を示すのは、本音を気取られまいとして会話を避けているから」というように私は解釈しています。

 

まとめ

  • 松野カラ松と松野一松は「弱い自分を隠すために虚勢を張る」という部分で似ている。
  • 松野カラ松は松野一松の考えていることをおそらく理解できていない。
    →そのため一松の反応に対してどう返答すべきかわからずに困惑している。
  • 松野一松は松野カラ松に本音を気取られまいと、言葉でのコミュニケーションを避ける傾向が強い。

なお、すべては私の個人的な解釈によるものであり、推論に過ぎません。こういうことではないかなーということを想像しながら書きました。

TwitterやAsk.fmから感想・意見・反論などを寄せていただけると嬉しいです。できる限り記事に反映させたいと思っています。お気軽にどうぞ。

 

【過去に執筆した「おそ松さん」関連記事】

松野一松の口からハト、松野カラ松の耳から魚が出ていく描写について【おそ松さんOP映像】

松野十四松の特異性が松野カラ松と松野一松の関係性を紐解く可能性について

松野カラ松はなぜバスローブを女性のように着ていたか松野チョロ松の扮装と結びつけて考える 

松野家の6つ子のファッションアイテムからみるそれぞれのキャラクター① 

松野家の6つ子のファッションアイテムからみるそれぞれのキャラクター② 

「銀河鉄道の夜」と比較しながら「十四松の恋」をみる 

 

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文章の書き方に関して【Ask.fmに寄せられた質問から】

文章を書くことに関連した質問がいくつか届いています。今回の記事ではそれらの質問に対する質問をまとめて紹介し、回答を示していこうと思います。

作品への感想を書く際に注意すべきことは?

私は文を書くのが下手です。面白い作品を読んで感想を送る際に気をつけていること、相手を不快にさせないコツなどがあれば教えてください。
Ask.fmに寄せられた匿名希望さまからの質問より)

質問ありがとうございます。感想を送るのはなかなか緊張しますよね。相手が不快にならないかな、と不安になってしまう気持ちもよくわかります。基本的には「自分がその感想を受け取ったときにどう感じるか」というのを常に想像しながら書き進めることが大切だと思います。

それから、いくら作品が素敵だからといって作品のページ順にずらりといいところを上げて詳細に書き綴ると似たような感想が重複してしまい、わかりにくい文章になってしまう可能性があります。わかりにくい文章よりも、わかりやすい文章の方が好まれるのは言うまでもありません。

私自身が実践しているおすすめの方法は、作品を読みながら付箋に「好きなポイント」をメモしていくことです。これは漫画・小説・イラストなど作品の形式を問わず使える方法です。PCのモニターにでも実際の冊子にでもいいので、「いい」と思った部分を一文でまとめて付箋に書いて貼ります。書き終わったらそれを剥がしてノートや紙などに内容ごとにまとめて貼り直し、整理します。このとき、「似た者同士(たとえば漫画作品ならイラスト表現でよかったところ、台詞回しでよかったところなど)」をまとめて貼るのがコツです。最後にこの内容をまとめて文章にします。少しだけ手間はかかりますが、頭の中で考えていることを一度すっきりとまとめてから文章にできるというメリットがあるのでこの方法をおすすめしています。

「相手がどう思うか」を考えつつわかりやすく感想をまとめることを意識すれば大丈夫だと思います。またわからないことがあればご質問ください。ひとりの「書き手」としての立場からではありますが回答をさせていただきたいと思います。

文体を維持するコツ、句読点の使い方について

ゆりこさんの文章は大変読みやすいと感じております。自分の言葉で文字を書き、表現することはとても気持ちの良いことなんだろうなあ〜と想像します。文体を維持するコツや、句読点の使い方で気をつけていることがあったら是非教えてください。
Ask.fmに寄せられた匿名希望さまの質問より)

質問とお褒めの言葉、ありがとうございます。確かに自分の考えを文字にして表現するのはとても心地がいいことですね。これからも自分の言葉で思いを綴っていきたいと思います。

さて、文体を維持するコツと句読点の使い方についてですが、実は自分では特に意識していることはないんですよね。ただ親族・恋人からたびたび「ゆりこの文章は匿名で掲載されていてもゆりこだとわかるほど強烈な特徴がある」と指摘されているので、まあ何らかの「癖」があるのは間違いないのでしょう。少なくとも私の母は同様の指摘を私が10歳ぐらいの頃からしているので、物心付いた頃には「書き癖」のようなものが出来上がりつつあったということなのだと思います。なので意識していることはこれといってないというのが実情です。私のブログを読みふけって「書き癖」の正体を見破った方がもしいたらぜひご指摘ください。私がいちばんそれを知りたいと思っています。

それから句読点の使い方についてですが、これは「リズム」「バランス」で考えています。頭の中で読み上げながら文章を書くというのが私の癖なのですが、このときに「なんだか語感が悪いな」「あまりテンポが良くないな」といった違和感が生じれば、すぐ該当箇所の表現を改めるようにしています。これも感覚でやっていることで、具体的にどう気をつけているかと訊かれると答えようがありません。文章を書く力というよりは、音感の方が近いかもしれません。強いて言うなら「自分にとって心地の良い文章のリズム・バランスを見つけ出す」ことが大切なのかなと思います。

本をたくさん読んで、自分にとって好ましいリズムとバランスを探し出してそれを真似てみるのもひとつの方法ではないかなと思います。

書き言葉・話し言葉についての考え・使い分けについて

前に自分で知識を組み合わせて考察したものを発表したいと相談した者です。ツイッターを始めたのですが、Twitterでは話し言葉で書けばいいのか書き言葉で書けばいいのか迷子になりました…ただの雑感なのに書き言葉でかくと少し恥ずかしいし、でも話し言葉でググると、書き言葉に変えよう!というようなサイトが多くあって(多くは中学生の作文用・就活用等使い分けがあることを知りました)、頭がごちゃごちゃになりました。自分は何が書きたいんだろうと考えすぎて迷子になっています。書き言葉と話し言葉についてyurico15さんの考えること、どうやって使い分けているかなど意識していることを教えていただければ幸いです。
Ask.fmに寄せられた匿名希望さまの質問より)

質問ありがとうございます。Twitterを利用しているということなので、今回はそのことを前提に回答をさせていただきますね。

まず、Twitterには「140文字」という字数制限、いわば“縛り”が存在します。このことを活かせば「言いたいことをすっきりと短文でまとめる力」を身に付けることが可能です。Twitterを言語表現の「訓練」に使うメリットの一つはこれですね。

次に「つぶやき」をタイムラインに気軽に気の向くまま垂れ流すことができる、これもTwitterのメリットです。自分がそのとき思ったことをそのときの感性で思いのままに表現できること、これがTwitterの最大の「売りポイント」です。つまりTwitterは「話し言葉」と非常に相性がいいサービスなのです。話し言葉による表現は、自分の感情の細かな機微をありのまま記録することに長けています。特に特徴的なのは感動詞。「ああ」とか「おお」とか「わーい」といったものですね。こういった表現を用いることで短い言葉でそのときの思いをできる限り正確に記録することが可能です。なのでTwitterでは話し言葉で「いま現在感じたこと・考えたこと」を思いつくままに記録していくのがいいと思います。

Twitterに書き残したことをブログなどの形式でまとめて発表したいという場合には、その内容を書き言葉に直してまとめた方がよいでしょうが、今は話し言葉で思いを正確に書き残していくことに専念されるだけで十分ではないかと考えます。

また、私の「話し言葉」「書き言葉」の使い分けについてですが、これは「どこで発表するか」「どういう人に読んでもらうのか」といったことを考えたうえで分けています。Twitterでは思ったことをそのままのテンションで書き綴りますし、ブログではなるべく冷静に考えを表現するように心がけています。要はTwitterの利用者に読ませるのか、それともはてなブログの読者に読ませるのかということです。

あなたの場合、書きたいことさえも行方不明になってしまっているようなのでまずはこれを明らかにしていくところから始める必要があると思います。あれこれ考えて悩んでしまっていることそれ自体について「話し言葉で」なるべく正確に書き残してみてください。その記録を後から読み返して内容を整理していく過程で、書きたいことや自分の考えも見えてくるのではないかと思います。頑張ってください。応援しています。

 

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松野十四松の幼さ、狂気は演技によるものか?【Ask.fmに寄せられた質問から】

松野十四松の幼さ、狂気は演技によるものか?

初めまして、そして本当にお疲れ様です。いつも貴方様のおそ松さんに関する考察をとても興味深く読ませていただいております。自分も今卒業論文執筆の真っ最中であり、yurico様の纏まった美しい文章を見ては自分もこんな風に纏めることが出来ればと思ってしまいます。 「十四松の恋」での十四松、またこれは番外編に当たるので違うかもしれませんが「なごみ探偵おそ松」での十四松は比較的常人のような振る舞いをしており、ここから見るに十四松はあえて狂人もしくは幼く成長していない姿を演じているような印象を受けたのですがyurico様はどう思いますでしょうか? 既にネット上で議論され尽くした様な質問で申し訳ございません。
Ask.fmに寄せられた匿名希望さまからの質問より)

質問ありがとうございます。そして卒業論文の執筆中とのこと。私は「どうせ間に合うから」とかなりゆるゆる進行でやっているところなのですが、普通はもうラストスパートをかけている頃合ですよね。お疲れ様です。一緒に頑張りましょうね。

「十四松の恋」については一応考察記事をすでに掲載しているのですが、これはどちらかというと「彼女」を中心に書いたもので、十四松のことにはあまり触れられていませんでした。ちょうどいいところにこの質問が来たので、ここで私なりの考えをまとめておこうと思います。

8話Aパート「なごみ探偵おそ松」は、6つ子たちが「6つ子ではない」物語であるというところが鍵だと思います。登場する鑑識官・松野十四松も「松野家の6つ子ではない」のです。そして9話Bパート「十四松の恋」における十四松も、他の兄弟たちから温かく恋路を見守られながらも、基本的には兄弟から離れて動いています。

要するに、松野十四松は「兄弟から離れたとき(兄弟から切り離されたとき)」に比較的常人のような振る舞いをする傾向があるのだと思います(個人的にはおそ松が他の兄弟が十四松を尾けるのを制したのも、このあたりに一因があるのではないかと妄想しています)。この考え方でいくと、7話Aパートのスタバァでのシーンでひとり床にこぼれたコーヒーを拭いていることも説明ができそうです。

では、その「兄弟とともに過ごすとき」にみることができる幼さ・狂気は演技によるものなのか。私はこれを「演技ではない」と考えています。

10話において、松野おそ松が松野カラ松に対して「お前は変わらなくていいよ」と発言する場面があります。この会話の場面から読み取れるのは、松野おそ松が「毎日を楽しく過ごすためならばキャラクターを変更する必要なんてない(周りの人の感覚が馬鹿になればいい)」と考えているということです。松野おそ松は自分を含め6人の兄弟でいかに楽しく毎日を過ごすかということにかなり重点を置いています。そして、松野カラ松の痛々しい言動も面白い毎日のために必要な要素である(とみなしている)から、いまさら改めなくていいと彼をすっかり丸め込んでしまうのです。

とにかく手数が多いのが松野十四松。どんなに滑っても気にせずギャグを展開し続けるのが彼の個性であり、兄弟の中での役割です。誰にも予想のできない言動は、カラ松とはまた別次元の面白さを有しています。そして、おそらくおそ松はカラ松に対して言ったのと同じようなことを十四松に対しても過去に言い聞かせたことがあるのだろうと推測します。そしてその結果、十四松は兄弟の中でそうした役割を保って動くことを自然と身につけていったのではないかと思います。

十四松自身には演じている気などまったくない(つまり、あえて演じているわけではない)のでしょうが、他の兄弟と過ごす中ですっかり狂人じみた言動をとる役割が定着してしまい、比較的常人らしく礼儀正しい(←先に挙げた例のほか、2話A、5話Bでのしっかりした挨拶など)という彼の本来の性格が埋もれてしまった、というように私には見えます。そしてその本来の性格が「兄弟から切り離される」ことで可視化されやすくなるのだろうと思います。

彼氏とも少し話をしてみたのですが、「比較的常人らしく礼儀正しい」方がより素の状態に近いのではないかというところで考えが見事に一致したので、意外とよくある感想なのかもしれません。

今後もこの傾向がみられるのかどうかはわかりませんが、兄弟との距離について注視しつつ動向を温かく見守ってゆきたい所存です。

 

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