「銀河鉄道の夜」と比較しながら「十四松の恋」をみる
【当ブログのアニメ考察記事を読む前の注意】
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今回の記事では読者の方から感想と考察を待たれ続けていたテレビアニメ「おそ松くん」第9話Bパート「十四松の恋」に関して思いの丈を記述しようと思う。
とにかく、何度観ても泣けてしまう。初回視聴時は思わず声を上げて泣いてしまったほどだ。そしてTwitterのアカウントでこっそり呟いたのだけど、細田守監督が長編アニメーションで描き出すような男女関係をものの15分ほどで、しかしながら丁寧に描ききっていることにただただ驚いた。
9話放送直後、Twitterのタイムラインに流れてくるネタバレ感想をいくつか拾い読みして「『銀河鉄道の夜』に似ている気がする」という印象を持った。そしてその印象は、自身の目で9話を見たあとも変わらなかった。
今回は「おそ松さん」第9話Bパート「十四松の恋」から気になった描写を抽出し、宮沢賢治の小説「銀河鉄道の夜」と比較していくことにする。なお、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は青空文庫で全文読むことができるのでこの機会に紹介をさせていただく。
「恋する十四松」と「銀河鉄道の夜」の類似点
ごく端的に述べるなら、どちらも「水難事故から人を救い出した人が鉄道を使ってはるか遠くへ旅立つ」物語である。
「銀河鉄道の夜」では、川に落ちたザネリを救出するためにカムパネルラが消息を絶つという水難事故が有名だと思われるが、実は銀河鉄道には他の水難事故で命を落とした乗客もいた。
いえ、氷山にぶっつかって船が
沈 みましてね(中略)私たちは水に落ちもう渦 に入ったと思いながらしっかりこの人たちをだいてそれからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。
ジョバンニとカムパネルラが銀河鉄道の車内で出会った青年の台詞を上に引用した。十二歳ほどの女の子と六歳ほどの男の子の家庭教師であったこの青年は、姉弟の父がいる本国へ向かっていた。しかし乗っていた船が沈没するという水難事故に遭い、青年は同伴していた姉弟とともに死亡している。死を覚悟しながらも二人をしっかりと抱いて少しでも長く浮き上がっていようとした青年の慈愛に満ちた行動がとても印象に残る一場面だ。
一方の「恋する十四松」の中でも「水難事故」が印象的に描かれている。
一ヶ月ほど前、十四松がのちに恋に落ちる相手である「彼女」は崖から海へ飛び込んで自殺をしようとしていた。しかし、海岸で素振りをしていた十四松が波にさらわれてしまったのを目撃した「彼女」は十四松を救出し、蘇生を行う。「恋する十四松」における「水難事故」はこの部分が該当する。
この「水難事故」については、「銀河鉄道の夜」作中におけるカムパネルラが死亡する事故と青年と姉弟が死亡する事故のいずれとも類似している点が指摘できる。それは「自己犠牲により他人を救い出すこと」を描き出しているという点だ。「銀河鉄道の夜」において自己犠牲は極めて重要なテーマとして取り扱われているが、これは「十四松の恋」との類似点であると指摘できると考える。
「彼女」の生死に関する個人的な解釈について
「十四松の恋」に関する考察では「『彼女』は死亡している」とみなす意見、そして「『彼女』は生存している」とみなす意見の両方をみることができる(余談だがAsk.fmに寄せられた質問への回答でも少し触れたのだが、「死んでいる」とも「生きている」とも読み取ることができる作品世界の奥深さこそ「おそ松さん」の見所であると思っている)。
「彼女」の生死に関してだが、私は後者であろうと考えている。以下、そのように考えた理由について述べることにする。私の個人的な解釈であることをご留意いただいた上で読んでいただきたい。
「彼女」が死ぬつもりで立っていた崖には血のようなもので「自決」という文字が書かれていた。「自決」という言葉の意味を辞書で引くと、次のような記述をみることができる。
1 自分の意志で態度・進退を決めること。「他国の干渉を排し、国民の総意で―する」「民族―」
2 自分の手で生命を絶つこと。自殺。自害。「ピストルで―する」「集団―」(デジタル大辞泉より引用)
崖に書かれていた「自決」を2つの意味のどちらで理解するかによって、この場面をどう読み取るかが変わってくるように思う。もちろん、ダブルミーニングであるという考え方も可能であるが、私はこの崖での「彼女」がとった行動から「自分の意思で態度・進退を決めること」を意味しているものと理解した。
はじめは自殺をする、つまりは「生きることを放棄する」という覚悟を決めていた「彼女」だったが、海岸で6000回以上も素振りを続ける十四松の前でそれを実行することはできず、最終的には十四松を救うために海岸へ向かう。「彼女」は崖から飛び降りて死ぬことではなく、波にさらわれて溺れてしまった十四松を救出することをあの崖の上で決意し、それを実行したのだ。このことが「自決」に該当するのだろうと私は考えた。
ただ、「彼女」は十四松と出会い、笑顔を取り戻したあとも再び自殺を計画していたのではないか、と私は推測している。十四松との別れ際、新幹線に乗る「彼女」の手回り品があまりにも少なすぎたこと、そして十四松に笑顔を見せたのち再び涙を流している描写が挿入されていることをそのように考えた理由として挙げることができる。
まず、手回り品の少なさに関して。「田舎に帰る(引っ越す)」のにポシェットがひとつだけというところが引っかかった。荷物だけ先に実家に送ったという可能性も考えられるが、それにしても荷物が少なすぎるように私には思えた。崖の上でも素振りをしていた十四松を前に自殺を躊躇っていたという描写があることから、十四松の目の届かない遠く離れたところでの自殺を計画して身辺整理を済ませた上で発とうとしていたのではないかという気がしたのだ。
また、十四松に笑顔を見せたあと新幹線の車内で十四松から貰ったものと思われるリストバンドをつけた手首を握って涙を流しているシーン。これも妙に引っかかるところがある。
ただ「無難に感動できる」作品に仕上げるだけなら、十四松の「また会えマッスルマッスル」という台詞に対して微笑みながら「また、会おうね」というありがちな台詞を入れるだけでもよかったはずだ。そこを敢えて、彼女に笑顔になってもらいたいと一生懸命頑張った十四松を印象的に描ききったあとで「涙を流す」という場面を挿入していることに私は注目したい。
こうした描写から、「彼女」が十四松と離れて自殺を実行する決意を固めつつあったということ、しかしながら一生懸命に自分を「笑わせにかかる」十四松が再会を望んでいることを伝えにきたことでその決意が揺らいでいる可能性を考えた。
十四松のリストバンドと苹果について
「いかがですか。こういう
苹果 はおはじめてでしょう。」向うの席の燈台看守がいつか黄金 と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落さないように両手で膝 の上にかかえていました。
(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』青空文庫より引用)
「だからさ苹果は宇宙そのものなんだよ。手の平に乗る宇宙。この世界とあっちの世界を繋ぐものだよ」
「あっちの世界?」
「カムパネルラや他の乗客が向かってる世界だよ」
「それと苹果になんの関係があるんだ?」
「つまり、苹果は愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ」
「でも、死んだら全部おしまいじゃん」
「おしまいじゃないよ!むしろ、そこから始まるって賢治は言いたいんだ」
「ぜんぜんわかんねぇよ」
「愛の話なんだよ!なんで分かんないかなあ!」(テレビアニメ「輪るピングドラム」第一話の小学生の会話より引用)
最後に十四松のリストバンドについて、ごく簡単に触れてみようと思う。
「銀河鉄道の夜」には黄金と紅でいろどられた苹果が出てくる。テレビアニメ「輪るピングドラム」において、幾原邦彦は苹果が「この世界とあっちの世界を繋ぐもの」「愛による死を自ら選択した者へのご褒美」であるということを示した。
この苹果は、先に述べた青年と姉弟やジョバンニ、カムパネルラに対して与えられるものとして描かれている。
私はこの苹果に該当するものが十四松のリストバンドではないかと考えている。
リストバンドは、包帯の代わりに「彼女」のリストカット痕を隠す役割を担っている。そしてそのリストバンドをぎゅっと握りながら「彼女」は十四松を想い、涙する。生と死の間を行き来する「彼女」の心をつなぎとめるアイテムとして、リストバンドが機能しているように思えたのだ。
また、「愛による死を自ら選択した」という箇所は「十四松を助けるために『生きることを放棄する』という覚悟を殺した」と言い換えることができるのではないかということも考えた。死んでも「おしまいじゃない」のは結果として「彼女」が生きることであるから。
こう考えるとハッピーエンドなのかな、と思う。
ここまで長々と書いてきたが、今回の記事は考察というよりも「こういう話であってほしい」という個人的な願望のようなものが多分に含まれてしまっていることをご理解いただきたい。
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【追記】
「8話A、9話Bにおける松野十四松は比較的常人のような振る舞いをしているように見受けられるが、日頃の十四松の幼さを感じさせる言動は演技によるものなのか」という質問が読者の方から届いた。上に紹介したのはその質問に対しての回答を示した記事である。9話Bでの十四松のことにも再び触れているのでよろしければこちらもどうぞ。
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