松野一松という人物からブログへの意見を寄せていただいたものの反論する

松野一松さんからコメントを頂いた

投稿者名:松野一松

おそ松さんを純粋に楽しめないのかなって思う。 そんなに難しく考えなくても、ただただ楽しく視聴すればいい。 そんな風に考えたところで、あのアニメが変わる訳じゃない。 ないものねだりはやめた方が良いと思う。

松野カラ松に理不尽な要求を繰り返すフラワーの正体を探る - お粗末さまでした のコメント欄より引用)

投稿者名を「松野一松」にしておけばブログを辞めるだろう、と思われていることが悲しい。私がどれだけ「おそ松さん」という作品に、そして「松野一松」というキャラクターに入れ込んでいるかということ、そしてその名を騙ることがどんなに愚かであるかということがまったく周知されていないことが虚しい。

なぜ私が「おそ松さん」を純粋に楽しんでいるように見えないのだろう。細かな描写に着目した論考を書いているから?「書く」という行為そのものを楽しんでいる私にとって、その考えを文章にしたためることは大変な快楽でしかない。「おそ松さん」という作品に対する思いを書き綴ることが楽しくてならない。

ただただ楽しく視聴すればいい、と「松野一松」を騙る愚人は言う。

「おそ松さん」という作品はギャグアニメであるのだから、細かな描写を観察して論考を展開する行為は非常に愚かなことだと主張する人がいることを私は一切否定していない。しかしながら、そういう人びとが私に対して「だから論考を執筆すること、公開することの一切を辞めろ」と主張するのであれば反論をする。なぜ他人から指示されるままに趣味を放棄しなければならないのか?私は私の主張したいことをこの場で発表するだけだ。それが不愉快でたまらないならこのブログを訪れなければいいだけのことだ。

「おそ松さん」という作品の「観るたびに色が変わってみえる」ところが好きだ。観るたびに違う世界を私に見せてくるキャラクターたちの生々しさが好きだ。あるときには常人からかけ離れた異常性を見せたかと思えば、あるときには私たちと何ら変わらぬ人間であることを感じさせる彼らに私はとても魅了されているのだ。その魅力について、私は思う存分好きなように自分の言葉で語ってきた。あなたの考察を読んで新しい発見をすることができた、新しい作品の楽しみ方を学ぶことができた、そういう感想や感謝の言葉をこれまでいくつも頂いた。それが活動の励みになっている。嬉しくてならない。

一度目の視聴では、頭の中を空っぽにして観る。二度目の視聴では、気になるポイントを見つける。三度目の視聴では、細かい描写に着目する。視聴を重ねながら記事を書き、足りなかった点を後日補足しながら内容をさらに深めていく。この作業が楽しい。

ないものねだりはやめた方が良い、と「松野一松」を騙る愚人は言う。

私は「おそ松さん」を変えようとブログを書いているわけではない。むしろ「おそ松さん」の世界の魅力をいかに自分の言葉で表現できるかに挑戦しているだけで、どちらかといえば彼らの世界に縛り付けられている側の人間だ。これまでのブログ記事を読んだ上でそのように思われたのであれば、あなたの読解力が著しく欠如しているか私の文章力が稚拙すぎたかそのいずれかだろう。

ある作品を観る、そしてその作品について考察する。この行為を「難しく考える」とか「純粋に楽しめない」と考えていることから、あなた自身が考察するという行為そのものに苦痛を感じているらしいことがわかる。私は考えることに楽しみを見出しているのだから、あなたの主張は筋違い極まりない。

「松野一松」を騙ればブログを辞めると思ったか。

そもそもどうして私にブログを辞めさせたいのかは問わないが、他人の名を借りているうちはその言葉になんの説得力も宿らないことを学ばれたほうが良い。

 

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