【おそ松さん19話】「チョロ松ライジング」から自意識について考える

「おそ松さん」19話を観た。先日購入したアニメ情報誌「PASH!」3月号において、「おそ松さん」監督・藤田陽一氏の「19話以降、見どころはなくなります。クッソつまんなくなります(16頁より引用)」というコメントが掲載されていたが少なくとも19話はまったくそんなことはなかった。いったい誰なんだこんな適当なコメントをしたのは。

さてTwitterでの反応をぼんやり眺める限り、やはり「チョロ松ライジング」に関連した感想ツイートが散見されていたように思う。そこで今回は、6つ子のキャラクターについて考察する際の「ポイント」となる描写が詰まっていたこの「チョロ松ライジング」の内容について簡単に触れた上で、興味深い指摘を受けたのでそちらを紹介しておく。

「自意識」とは何か

「チョロ松ライジング」では、繰り返し「自意識」という言葉が使われている。この「自意識」という言葉をあなたならどう説明するだろうか。説明を求められると困惑してしまう方が多いのではないかと推測する。しかし、私たちはこの「自意識」という言葉を日常会話の中で何気なく使用している。そして大抵の場合、「自意識」という言葉は「過剰」という言葉を付け足して「自意識過剰」という一語で用いられている。「自意識」とは一体何なのか。それが過剰であるという状態は一体どのような状態を示すのか。

一言で「自意識」を説明するなら「他の人物とは区別されている自分自身に対する意識」といったところか。では「自意識過剰」とは??これは「他の人物とは区別されている自分自身を過剰に意識すること」だと説明できる。もっと簡単に言うと「他人から自分がどのように見えているか、思われているかということを過剰に気にしてしまう状態」、これが「自意識過剰」だ。

「自意識過剰」と「自信過剰」という異なる言葉を混同して使ってはいないだろうか?「自信過剰」とは過剰な自信に満ち溢れている状態を指す言葉であるから、「自意識過剰」とは異なっていることに注意しておきたい。

松野チョロ松の「自意識ライジング」とは何か

英語の形容詞risingは上昇する、増大するという意味を持つ。このことから「チョロ松ライジング」でたびたびおそ松・トド松が口にする「自意識ライジング」とは(作中ではチョロ松の)自意識が増大している様子、すなわち自意識過剰に陥っている様子のことを指した造語であると理解できる。また近年たびたび話題になる「意識高い系」という言葉の「高い」にも掛けているものと思われる(チョロ松の自意識がチョロ松の手元を離れて高い位置を浮遊している描写から)。

チョロ松の自意識は作中でどんどん膨れ上がってしまう。その原因はおそ松とトド松が「ナンパ」をするようにチョロ松をけしかけたことにある。「一軍」の女性、顔は美人というほどではないがスタイルがいい女性、顔もスタイルもふつうだがオシャレな女性、見目は劣るが性格がよさそうな女性……という具合に「女性のレベル」を落としながらターゲットを見定めていくおそ松だが、チョロ松はいずれの女性に対してもナンパをしようとはしない。ナンパを拒むたびにチョロ松の自意識ライジングは次第に膨張していく。

ナンパするターゲットを決めるプロセスにおいて、チョロ松は「初対面の女性から自分がどのような目を向けられるか」ということを過剰に意識してしまった。相手からどのように思われるかということを意識するという意味で、ひたすら関心が自分自身に向かっているのだということがチョロ松というキャラクターを理解する際の重要なポイントになることはいうまでもない。

F6仕様の松野チョロ松ED、その違和感のなさ

19話のEDはまさかの「F6」仕様。映像は通常のものを使用しているため、ED開始直後はF6仕様であることに気付かずに「チョロ松ついにおかしくなったか」と心配した視聴者もいたらしい(ビューティージーニアスという二つ名を最後に名乗るため、F6仕様であることが音源だけでもわかる仕様にはなっている)。

しかし、「チョロ松ライジング」で自意識を膨大化させた(自意識ビッグバンを起こした)チョロ松の変貌した姿を見た直後であるからか、普段はなんだか背筋がこそばゆくなるイケメン仕様のボイスを違和感なく受け入れてしまった自分がいた。

この点について、いつも「おそ松さん」を視聴している彼氏(※チョロ松推し)に話題を振ったところ、興味深い指摘を受けた。

F6バージョンの6つ子は、自意識が膨大化した場合の姿なのではないか

というのだ。

私は「F6」の姿をとる一松・カラ松のキャラクターが本来は逆になるはずだったのではないか、ということについてずっと考え続けていた。というのもテレビアニメ第1話において「車に轢かれそうな小動物(外見は猫だが、犬の鳴き声)を助ける」一面を見せたのはカラ松だったということがどうにも引っかかっていたからである。意地悪そうに見えて実は心優しく動物を大切にする人物である、という描写はそれ以降の回を観てから振り返るとカラ松ではなく一松に当てはめたほうがしっくりくる気がしたのだ。そして、イケメンのキャラクターとして個性をより強調して人気を獲ろうと作戦を練った第1話の時点で、自分の内面が兄弟の前に露呈するのを恐れた一松がカラ松に対してそのようなキャラクターで「売る」ことを強引に押し付けたのではないか、というところまでを勝手に想像していた。

だが「自意識が膨大化した場合の姿」をF6であると捉えれば、先に述べたような強引な理解に頼らない考察を展開することができるのではないか。その意味で指摘が興味深いと感じたのである。

F6をどう捉えるかという点では、第1話の「ふっかつ!おそ松くん」、第3.5話の「松汁」、第16話の「松野松楠」に着目することが重要になってくるものと思う。円盤のみ収録となっている3.5話を考察にどこまで反映させるか悩んでいたが、アニメ終了後にほかの回と結びつけながら取り扱うことにしようかと今は考えている。

 

個人的にはとても重要な指摘が詰まっている物語だと認識している。今回の記事ではおおざっぱな部分にしか触れていないので、それぞれのキャラクターの自意識についても着目しながらさらなる考察を今後継続して行いたいところだ。

 

【2月19日2:00追記】

6つ子それぞれの「自意識」の違いについて整理し、まとめた記事を書いたのでこちらもよければどうぞ。

 

 

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