松野一松の「エンターテイナー」としての性質から「一松事変」を読む

今回の記事では「おそ松さん」における松野一松の描写で、私が個人的に好きなところ・注目しているところをいくつか挙げていくことにする。もっとも、私の「推し松」でもある松野一松については今後全セリフをまとめながら、その言動について事細かに考察をしていきたいと思っているのだが、その前段階としてごく一部を取り上げてみようと試みたわけである。

松野一松は「エンターテイナー」である

第6話Aパート「お誕生日会ダジョー」において、一松がカラ松をバズーカ砲で撃つ場面がある。これはカラ松が「ここで働くってか……旗だけに」というダジャレを言った「ツッコミ」としての機能を持つ行為だと理解できる。というのもそれより以前の場面で「はた迷惑はごめんだぜ」とカラ松が発言した場面では全員がそれを無視し、完全に「スベっていた」ことがある。これを受けて松野一松は救済策(?)としてバズーカ砲で撃つことにより「爆破オチ」的に処理した、という考え方ができる。

私がこの場面をとても好きなのは彼の「エンターテイナー」としての性質がよく現れている一場面だというように捉えていること、そしてカラ松のギャグが完全にだだ滑りするのを阻止してあげているというほんの少しの優しさを垣間見ることができるからである。

松野一松が意外とノリがよく、人(兄弟)を楽しませようというエンターテイナーとしての性質を持っていることは他の回を見ても明らか。

たとえば14話Bパート「トド松のライン」。冒頭では屋根の上でポエマーと化しているカラ松を猫を使って落とすことによって文字通り「オチ」をつけさせて、さらには「羊たちの沈黙」のレクター博士をモチーフにしたと思われる「一松博士」に衣装・背景セット完備の上で扮しているという高いエンターテイナーとしての実力を見せつけた。

私は彼がここまでしておもしろいことをやろうとするのには「暇・退屈」を極度に厭う長男おそ松の影響が及んでいるところが多分にあるのではないか、と睨んでいる。

「童貞の成人男性」としてのキャラクターが持つ固定観念

第16話Bパート「一松事変」における描写で私が個人的に注目した場面がある。それが「おそ松の前で革ジャンを脱ぐ(ことによって体型の僅かな差異などからカラ松ではないことを見破られる)ことを恐れた一松が、服を脱がずにその場をやり過ごそうと試みる」というシーンだ。

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▲第16話Bパート「一松事変」より。その場をやり過ごすために嘘を重ねていく一松が、カラ松の格好をしたままおそ松に告白をしてしまうという場面。(参考画像はテレビアニメ「おそ松さん」Ⓒ赤塚不二夫/「おそ松さん」製作委員会より)→公式サイトはこちらから

「一松事変」のこの場面から、一松のジェンダー観が読み取れる。すなわち男性の同性愛者(ゲイ)に対してどのようなイメージを抱いているかということがわかるのである。極端な内股になりながら、頬を赤らめ、両手を胸の前できゅっと握ったこのポーズはこれでもかというほどステレオタイプで塗り固められた「女々しさ」そのもの。これは一般に「オネエ系」という言葉で総称されるような男性をイメージした行動であろう(もっとも私は「オネエ系」という表現を好まないのだが、これといってほかによい表現も浮かばなかったのでここではそのように表記している)。一松は男性へ恋愛の情を抱く男性に対してこれでもかというほど女性的なイメージを重ねているということがこの場面からわかるのである。

「一松事変」を視聴した人からは「腐女子に媚びている」という声も上がっていたようだが(当時のTwitterのタイムラインを参照した)、私としてはそうは思わない。もしこの表現に対して異議を唱えるのであれば男性の同性愛者をオネエ系として安直に描きすぎな点を指摘する方が先ではないか、と個人的には思うのである。

女性である私が知った素振りで書くのもどうかと思うが、男性の同性愛者の人々にも当然ながらいろいろな人がいる。LGBTの参加する集会にも何度か参加したことがあるが、男性同性愛者の中ではむしろマチズモ的思想の方がよく採用されているような印象さえ受けた。もちろんこれは私の観測範囲内の話であるから、すべての男性同性愛者にこれを当てはめるものではない。ただ、男性の同性愛者をオネエ系と安直に結びつけることに対して違和感を持つのはこういう事情を幾度となく見てきたという自身の経験からである、ということを示すために例として挙げた。

そして、もっといえばこういう「男性同性愛者=オネエ系」のような認識をしている松野一松というキャラクターの属性が「童貞の成人男性」として設定されているということに注意しておきたい。

この「一松事変」という作品に対する批判としては「腐女子側の目線に寄りすぎ」という内容のものが目立っていたが、私としては「童貞の成人男性」という6つ子たちの属性に極めて近い境遇にある人々が、ステレオタイプそのままに描かれる「童貞の成人男性」の描写に対して違和感を表明するというムーブメントは生じないのか、ということばかりが気になった。

一松のこの「男性同性愛者=オネエ系」という安直すぎる固定観念の他にも、これまで「童貞の成人男性」であるキャラクターたちが持つ固定観念を「おちょくる」内容の描写がいくつも登場した。DVD、Blu-ray第1松に収録された3.5話Bパート「童貞なヒーロー」ではそもそも童貞であることそのものをネタにするというような物語が展開された(ちなみにこの「童貞なヒーロー」において、松野一松はなんやかんやあったのちに「童貞ゴッド」へと進化してしまう。兄弟の中でもっとも「こじらせている」ように描かれがちなのが一松なのである)。

これに関する批判、つまり男性の性をネタとして消費する内容であり不適切であるというような指摘を見かけていない。もっと頻繁に見る機会があってもおかしくないと思うのだが。

ちなみにこのシーンでは、男性ファッション誌を参考にした「男らしいファッション」を追求するカラ松の服を身につけた上で極端なほど女々しいポーズをとってその場をやり過ごそうとしている、そのギャップを「笑い」に変換しようと試みた場面ではないかと私は理解している。

そのためここまでこのような内容で書いてはいるものの、男性同性愛者そのものをギャグにした内容ではない(服装とポーズのギャップに面白さを見出そうとした試みである)という理解をしているということを示しておく。

 一松はカラ松を捨てて保身に走ったといえるのか?

「一松事変」において、互いの服を着替えようとした一松とカラ松が半裸の姿で倒れている様子をおそ松が目撃してしまうという場面がある。二人がただならぬ関係にあるように誤解されかねない状況に慌てたカラ松はおそ松に弁明を試みるが、一松が「やめてよカラ松兄さん」と発言したことでおそ松はピシャリと襖を閉めてしまう。

この描写を「自分を助けてくれたカラ松を見捨てて保身に走った」と捉え、一松に対して「ひどい」と激怒する主旨のツイートをいくつも読んだ。しかしながら私としてはそうではなかったのではないか、と考えている。一松には別の意図があったのだと推測したためだ。

これまで述べたように一松は「エンターテイナー」として笑いを追求するような節がある。そしてその彼は男性の同性愛者に対して「オネエ系」のイメージを重ね合わせている。そしてそういう人たちがしばしばテレビ番組等でそれを「ネタ」にする姿をしばしば見ることができる。私としてはこういう認識はあまり好ましいものではないと思うが、一松の中で「この方向で展開すれば『おいしい』」という咄嗟の判断が働いていた可能性は完全に否定できるものではないと考えている。たとえばニコニコ動画Twitterでは腐女子が厭われる一方で「ホモネタ」をおもしろおかしいものとして取り扱う男性たちの姿も散見される。もちろん、場をやりすごすために彼が保身に走ることも決して少なくない。ただそれだけを彼のすべての言動に対して当てはめて考えるのは浅薄ではないか、というのが私の考えだ。

つまり、一松はこの場をやり過ごしつつ(ギャグ的に)「おいしい」展開に運ぶために敢えて「やめてよカラ松兄さん」という発言をしたのではないか、と想像することができるのである。もっともこれは私が彼に対して並々ならぬ好意を持っていることに由来する解釈であるから、反感を抱く人もいるかと思う。ただ保身のためだけではない可能性もある、ということを指摘したいがために書いたので物語読解の一つの(個人が導き出した)アンサーだということで読み流していただければと思う。

 

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