取り急ぎ簡潔に近況報告をば。

近況①テレビ局に就職することになりました

いろいろとあって、3月1日付で某テレビ局に就職することになりました。業務に慣れるまで更新のペースが著しく低下する可能性が考えられますが、当ブログを閉鎖するような予定は今のところまったくありませんので今後もお付き合いいただければと考えております。

「アニメ評論を中心テーマとしたブログを書いていて、毎日およそこのぐらいのPVがあります。自分の考えを自分の言葉で表現するということに対して自信とこだわりを持っています」という旨を強烈にアピールしておいたのが効いたのかな、と思います。書いててよかったはてなブログ

近況②どの本から買うべきかで悩む日々を過ごしています

なんとなく面白そうだなと思った本をAmazonのほしい物リストに入れて公開しているのですが、購入にあたってどれから買うべきかで悩んでいます(いきなりすべては買えないので)。もしリストの中に既読の本があっておすすめのものがあればぜひご教授ください。購入の参考にさせていただきます。リストの中に無い本でも大丈夫です。本が読みたい、勉強したいという思いがあるもののどこから手を付けるかで悩んでいるだけなので……。

 

というごく簡潔な近況報告でした。

更新のペースはしばらくの間落ちてしまうとは思いますが、これからも引き続き「おそ松さん」を中心に好きなことについて思い切り書き綴っていくつもりなのでよろしくお願いいたします。

それから同業のはてなブロガー様がいらっしゃいましたら、この機会にお近づきになってみたいです。よかったらコメント頂ければと思います。

松野一松という人物からブログへの意見を寄せていただいたものの反論する

松野一松さんからコメントを頂いた

投稿者名:松野一松

おそ松さんを純粋に楽しめないのかなって思う。 そんなに難しく考えなくても、ただただ楽しく視聴すればいい。 そんな風に考えたところで、あのアニメが変わる訳じゃない。 ないものねだりはやめた方が良いと思う。

松野カラ松に理不尽な要求を繰り返すフラワーの正体を探る - お粗末さまでした のコメント欄より引用)

投稿者名を「松野一松」にしておけばブログを辞めるだろう、と思われていることが悲しい。私がどれだけ「おそ松さん」という作品に、そして「松野一松」というキャラクターに入れ込んでいるかということ、そしてその名を騙ることがどんなに愚かであるかということがまったく周知されていないことが虚しい。

なぜ私が「おそ松さん」を純粋に楽しんでいるように見えないのだろう。細かな描写に着目した論考を書いているから?「書く」という行為そのものを楽しんでいる私にとって、その考えを文章にしたためることは大変な快楽でしかない。「おそ松さん」という作品に対する思いを書き綴ることが楽しくてならない。

ただただ楽しく視聴すればいい、と「松野一松」を騙る愚人は言う。

「おそ松さん」という作品はギャグアニメであるのだから、細かな描写を観察して論考を展開する行為は非常に愚かなことだと主張する人がいることを私は一切否定していない。しかしながら、そういう人びとが私に対して「だから論考を執筆すること、公開することの一切を辞めろ」と主張するのであれば反論をする。なぜ他人から指示されるままに趣味を放棄しなければならないのか?私は私の主張したいことをこの場で発表するだけだ。それが不愉快でたまらないならこのブログを訪れなければいいだけのことだ。

「おそ松さん」という作品の「観るたびに色が変わってみえる」ところが好きだ。観るたびに違う世界を私に見せてくるキャラクターたちの生々しさが好きだ。あるときには常人からかけ離れた異常性を見せたかと思えば、あるときには私たちと何ら変わらぬ人間であることを感じさせる彼らに私はとても魅了されているのだ。その魅力について、私は思う存分好きなように自分の言葉で語ってきた。あなたの考察を読んで新しい発見をすることができた、新しい作品の楽しみ方を学ぶことができた、そういう感想や感謝の言葉をこれまでいくつも頂いた。それが活動の励みになっている。嬉しくてならない。

一度目の視聴では、頭の中を空っぽにして観る。二度目の視聴では、気になるポイントを見つける。三度目の視聴では、細かい描写に着目する。視聴を重ねながら記事を書き、足りなかった点を後日補足しながら内容をさらに深めていく。この作業が楽しい。

ないものねだりはやめた方が良い、と「松野一松」を騙る愚人は言う。

私は「おそ松さん」を変えようとブログを書いているわけではない。むしろ「おそ松さん」の世界の魅力をいかに自分の言葉で表現できるかに挑戦しているだけで、どちらかといえば彼らの世界に縛り付けられている側の人間だ。これまでのブログ記事を読んだ上でそのように思われたのであれば、あなたの読解力が著しく欠如しているか私の文章力が稚拙すぎたかそのいずれかだろう。

ある作品を観る、そしてその作品について考察する。この行為を「難しく考える」とか「純粋に楽しめない」と考えていることから、あなた自身が考察するという行為そのものに苦痛を感じているらしいことがわかる。私は考えることに楽しみを見出しているのだから、あなたの主張は筋違い極まりない。

「松野一松」を騙ればブログを辞めると思ったか。

そもそもどうして私にブログを辞めさせたいのかは問わないが、他人の名を借りているうちはその言葉になんの説得力も宿らないことを学ばれたほうが良い。

 

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【おそ松さん19話】6つ子の「自意識」どこが違う??~「チョロ松ライジング」の描写から~

前回の記事のおさらい

①「自意識」とは簡単に言うと「他の人物とは区別されている自分自身に対する意識」のこと。
②「自意識ライジング」とは(作中ではチョロ松の)自意識が増大している様子、すなわち自意識過剰他の人物とは区別されている自分自身を過剰に意識してしまう状態)に陥っている様子のことを指す「おそ松さん」独自の造語由来はおそらく英語の形容詞「rising(上昇する、増大する)」。
相手からどのように思われるかということを意識するという意味で、ひたすら関心が自分自身に向かっているのだということがチョロ松というキャラクターを理解する際の重要なポイント。

「おそ松さん」19話「チョロ松ライジング」ではチョロ松以外の兄弟の自意識も登場する。そしてそのどれも色や形、大きさ、扱い方が異なっていた。それぞれの「自意識」がどのように描かれていたかを確認することで、6つ子のキャラクターを紐解いていきたいと考えている。

松野おそ松の「自意識」

:赤
サイズ:梅の実くらい(推定)。兄弟の中でもっともサイズが小さい。
:兄弟の中で唯一凹凸のある形。
扱い方:投げたり指先で回したり。丁寧とは言い難い。
本人のコメント:「確かに見た目はひどいけど、でも扱いやすい」(「おそ松さん」19話「チョロ松ライジング」より)

「他人からどう見られているか・思われているか」ということをほとんど気にしていない様子。また「見た目はひどい」と自覚している(凹凸がある)ことから、他人から抱かれる自分の印象がよくないという考えを持っているようだ。

松野カラ松の「自意識」

:青。透き通っている。
サイズ:片手の手のひらにちょうどすっぽりと収まる程度。
:球体。
扱い方:小脇に抱えている。
本人のコメント:なし。

兄弟の中では2番目に小さなサイズの「自意識」を持つ。透き通っているのが特徴。色を持ちつつ「透き通っている」ところが個人的には気になった。個性(自分の色)を持っているという自覚とともに、自分は他人から無視されがち(いないものとして扱われがち)な存在であるという認識を持っているということの現れかもしれない。実際に「自意識」が登場する場面での彼はフリーハグに挑戦中であり、なおかつ通行人からは無視をされている状況下にある。

松野チョロ松の「自意識(自意識ライジング)」

:緑。かなり強く発光している。
サイズ:作中で次第に膨張していく。
:球体であったが、膨張した結果触手のようなものが生える。
扱い方:手元を離れ、屋外に浮遊している。
本人のコメント:なし。

ナンパするターゲットを決める段階で「自分が相手からどのように思われるか」を過度に意識し、最終的には触手を持つ巨大な球体にまで「自意識ライジング」を膨らませてしまう。就職して自立する(一人暮らしをする)ことを目標にして行動を起こそうとしたとき、まず真っ先に「アイドルのファンを辞める」ことを選択したことから「アイドルのファン」である自分がどのような存在として見られるかということを気にしている節がある。

自意識ライジングが膨張した結果、スタバァ店内でパソコンやスマートフォンタブレットといった電子機器(段ボールで製作されている)を駆使して仕事をするという妄想に取り付かれる。バリバリ仕事ができる人間だと思われたいという「自意識」の現れだろう。

松野一松の「自意識」

:紫。引っ掻いたような傷三本あり(猫に引っ掻かれた形跡か??)。
サイズ:ボウリングの球ぐらいの大きさ。
:球体。
扱い方:地面に穴を掘って埋め、隠している。
本人のコメント:なし。

引っ掻いたような傷が目に付く一松の「自意識」。猫の引っ掻き傷をイメージしたものではないかと推測した。猫からどう思われているかということを気にかけているのかもしれない。また、サイズはあまり小さいとは言えないながらもそれを穴を掘って埋め、さらに足で踏み固めているという描写から「相手が自分をどのように思っているか」という意識から目を遠ざけようとしている様子を読み取ることができる。土をかけてからはせっせと踏み固めているのに、一瞬埋めるのを躊躇しているかのような「間」があったのが個人的には少し気になった。

松野十四松の「自意識」

:無色透明。
サイズ:体育座りをした十四松がすっぽりと収まるくらい。
:兄弟のうち唯一の不定形タイプ。シャボン玉に近い。
扱い方成層圏ほどの高度(推定)に浮遊している。十四松が中に入っている。
本人のコメント:なし。

やはり何を考えているのかさっぱりわからない十四松。カラ松と同じく透明であるが、色はない。ただし中に十四松がすっぽりと収まっている(!)ため「色がない=個性がない」ということを示しているものとはいえないだろう。「自意識」が誰の手にも届かない高度を浮遊していることから、「自分がどのように他人から思われているか」をほとんど理解していない可能性もある。第17話「十四松と概念」のように「十四松」である自分について考えを深めている途中の段階にあるということかもしれない。

松野トド松の「自意識」

:桃色。ミラーボールのような光のエフェクトあり(光を反射している??)。
サイズ:トド松の顔と同じくらい(一松のものより一回り大きめ)。
:球体。
扱い方:頬ずりをするなど、大切にしている様子。
本人のコメント:「確かにイタいほどキラッキラしてるけど、こうして手元にあるから!扱えてるから!」(「おそ松さん」19話「チョロ松ライジング」より)

自ら発光しているというよりは光を反射しているという表現のほうが(おそらく)適しているトド松の自意識。学歴を詐称してでも印象を良くしようとしたこと(第7話Aパート「トド松と5人の悪魔」より)を自らネタにしつつ「イタいほどキラッキラしてる」と形容。自意識のサイズも兄弟の中では大きめなうちに入る。

「イタい」「キラッキラしてる」という要素からカラ松のラメ入りキラキラパンツを想起した人がいたかもしれない。カラ松のファッションについて痛烈な指摘を繰り返すのは同族嫌悪が原因となっているのかもしれない(ダサいからではなく「盛っている」感じがすることが嫌なのではないかという可能性がある)。

 

今回は6つ子それぞれの「自意識」に焦点を当ててその違いについて整理した。キャラクターを理解するためのポイントになる描写であるものと思われる。特に十四松の「自意識」の描写について不可解な点が多いので、皆様から意見を頂戴しながらさらに考察を深めていきたいと考えている。

 

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【おそ松さん19話】「チョロ松ライジング」から自意識について考える

「おそ松さん」19話を観た。先日購入したアニメ情報誌「PASH!」3月号において、「おそ松さん」監督・藤田陽一氏の「19話以降、見どころはなくなります。クッソつまんなくなります(16頁より引用)」というコメントが掲載されていたが少なくとも19話はまったくそんなことはなかった。いったい誰なんだこんな適当なコメントをしたのは。

さてTwitterでの反応をぼんやり眺める限り、やはり「チョロ松ライジング」に関連した感想ツイートが散見されていたように思う。そこで今回は、6つ子のキャラクターについて考察する際の「ポイント」となる描写が詰まっていたこの「チョロ松ライジング」の内容について簡単に触れた上で、興味深い指摘を受けたのでそちらを紹介しておく。

「自意識」とは何か

「チョロ松ライジング」では、繰り返し「自意識」という言葉が使われている。この「自意識」という言葉をあなたならどう説明するだろうか。説明を求められると困惑してしまう方が多いのではないかと推測する。しかし、私たちはこの「自意識」という言葉を日常会話の中で何気なく使用している。そして大抵の場合、「自意識」という言葉は「過剰」という言葉を付け足して「自意識過剰」という一語で用いられている。「自意識」とは一体何なのか。それが過剰であるという状態は一体どのような状態を示すのか。

一言で「自意識」を説明するなら「他の人物とは区別されている自分自身に対する意識」といったところか。では「自意識過剰」とは??これは「他の人物とは区別されている自分自身を過剰に意識すること」だと説明できる。もっと簡単に言うと「他人から自分がどのように見えているか、思われているかということを過剰に気にしてしまう状態」、これが「自意識過剰」だ。

「自意識過剰」と「自信過剰」という異なる言葉を混同して使ってはいないだろうか?「自信過剰」とは過剰な自信に満ち溢れている状態を指す言葉であるから、「自意識過剰」とは異なっていることに注意しておきたい。

松野チョロ松の「自意識ライジング」とは何か

英語の形容詞risingは上昇する、増大するという意味を持つ。このことから「チョロ松ライジング」でたびたびおそ松・トド松が口にする「自意識ライジング」とは(作中ではチョロ松の)自意識が増大している様子、すなわち自意識過剰に陥っている様子のことを指した造語であると理解できる。また近年たびたび話題になる「意識高い系」という言葉の「高い」にも掛けているものと思われる(チョロ松の自意識がチョロ松の手元を離れて高い位置を浮遊している描写から)。

チョロ松の自意識は作中でどんどん膨れ上がってしまう。その原因はおそ松とトド松が「ナンパ」をするようにチョロ松をけしかけたことにある。「一軍」の女性、顔は美人というほどではないがスタイルがいい女性、顔もスタイルもふつうだがオシャレな女性、見目は劣るが性格がよさそうな女性……という具合に「女性のレベル」を落としながらターゲットを見定めていくおそ松だが、チョロ松はいずれの女性に対してもナンパをしようとはしない。ナンパを拒むたびにチョロ松の自意識ライジングは次第に膨張していく。

ナンパするターゲットを決めるプロセスにおいて、チョロ松は「初対面の女性から自分がどのような目を向けられるか」ということを過剰に意識してしまった。相手からどのように思われるかということを意識するという意味で、ひたすら関心が自分自身に向かっているのだということがチョロ松というキャラクターを理解する際の重要なポイントになることはいうまでもない。

F6仕様の松野チョロ松ED、その違和感のなさ

19話のEDはまさかの「F6」仕様。映像は通常のものを使用しているため、ED開始直後はF6仕様であることに気付かずに「チョロ松ついにおかしくなったか」と心配した視聴者もいたらしい(ビューティージーニアスという二つ名を最後に名乗るため、F6仕様であることが音源だけでもわかる仕様にはなっている)。

しかし、「チョロ松ライジング」で自意識を膨大化させた(自意識ビッグバンを起こした)チョロ松の変貌した姿を見た直後であるからか、普段はなんだか背筋がこそばゆくなるイケメン仕様のボイスを違和感なく受け入れてしまった自分がいた。

この点について、いつも「おそ松さん」を視聴している彼氏(※チョロ松推し)に話題を振ったところ、興味深い指摘を受けた。

F6バージョンの6つ子は、自意識が膨大化した場合の姿なのではないか

というのだ。

私は「F6」の姿をとる一松・カラ松のキャラクターが本来は逆になるはずだったのではないか、ということについてずっと考え続けていた。というのもテレビアニメ第1話において「車に轢かれそうな小動物(外見は猫だが、犬の鳴き声)を助ける」一面を見せたのはカラ松だったということがどうにも引っかかっていたからである。意地悪そうに見えて実は心優しく動物を大切にする人物である、という描写はそれ以降の回を観てから振り返るとカラ松ではなく一松に当てはめたほうがしっくりくる気がしたのだ。そして、イケメンのキャラクターとして個性をより強調して人気を獲ろうと作戦を練った第1話の時点で、自分の内面が兄弟の前に露呈するのを恐れた一松がカラ松に対してそのようなキャラクターで「売る」ことを強引に押し付けたのではないか、というところまでを勝手に想像していた。

だが「自意識が膨大化した場合の姿」をF6であると捉えれば、先に述べたような強引な理解に頼らない考察を展開することができるのではないか。その意味で指摘が興味深いと感じたのである。

F6をどう捉えるかという点では、第1話の「ふっかつ!おそ松くん」、第3.5話の「松汁」、第16話の「松野松楠」に着目することが重要になってくるものと思う。円盤のみ収録となっている3.5話を考察にどこまで反映させるか悩んでいたが、アニメ終了後にほかの回と結びつけながら取り扱うことにしようかと今は考えている。

 

個人的にはとても重要な指摘が詰まっている物語だと認識している。今回の記事ではおおざっぱな部分にしか触れていないので、それぞれのキャラクターの自意識についても着目しながらさらなる考察を今後継続して行いたいところだ。

 

【2月19日2:00追記】

6つ子それぞれの「自意識」の違いについて整理し、まとめた記事を書いたのでこちらもよければどうぞ。

 

 

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アニメを「語る」ことの難しさに関する個人的な私感

2016年冬クールアニメも折り返し地点が差し迫ってきた今日この頃であるが、皆様いかがお過ごしだろうか。私はというと「おそ松さん」に熱を入れるあまり他のアニメをほとんど視聴できていない状態が続いている。

今日は「アニメを評論する」ということについて私感を述べてみたいと思う。まず、下の記事を見て欲しい。これは今期アニメの第一話放送終了後時点ではてなブックマークのホットエントリーに食い込んでいたブログ記事だ。

この記事のように、放映されている作品をくまなくチェックした上で自分なりに感想を述べたり、ランキング形式で紹介する記事をネット上ではいくつも見ることができる。アフィリエイトと非常に相性がよいということもこのような記事が量産される原因のひとつではあるだろう。しかし、このような記事の中が注目を浴びることから「自分以外の視聴者がどのように作品を捉えているか」という話題の関心が高いということを推測することができる。実際に、私が当ブログで執筆している「おそ松さん」の考察記事も高い検索流入数をキープし続けている。それだけ同じ作品を観た視聴者の考えを知りたいと渇望する人が多いのだ。

しかし、アニメに限らず何かについて論じ、評価を下すということは大変に難しい。特にアニメや映画のように、多様化した作品が次々と創出されていく分野においてすべての作品に対して同じ価値基準を採用した評価を下すことはほぼ無理だと言っていいだろう。

たとえば「ロボットアニメ」に限定したアニメ評論を書こうとしても、そもそも「ロボットアニメ」とは何ぞや、というところを定義するところからして難しい。なぜならアニメ作品における「ロボット」をどう定めるかという認識が人により大きく異なっているからである。具体的な事例としては「新世紀エヴァンゲリオン」の汎用人型決戦兵器(エヴァンゲリオン)をロボットとみなすのか、人造人間とみなすのかという議論が長年続けられている例がいちばんわかりやすいかもしれない。他にも少し考えただけでも「超ロボット生命体トランスフォーマー」をロボットとみなすのか、といった例も挙げることができる。作品を大雑把に分類し、その中で作品を比較しながら語ろうとしたところでまず作品の分類に関する激しい議論が展開されてしまうために「ジャンルごとに語る」ことさえも難しくなってしまっている。

また、私のようにアニメ作品について考察を行った記事に対しても反感を持ち、更新をやめさせようとする人もいる。実際に私は「アニメの考察をやめろ」という苦言をいくつも頂いている。監督やキャストの発言に従えば「おそ松さん」について考察するということが極めて愚かで、かつ作品を鑑賞する態度として相応しくないことである、ということが言いたいらしい。自分の気に食わない評論について難癖をつけて取り下げさせようとするこうした人々の存在は、アニメについて語ることを躊躇わせる障害ともなりかねない。

この「原作(者)至上主義」的なものの考え方については、日本の国語教育において「作者の考えは何か」という問題が執拗に出されることが遠因にあるのではないかと私は睨んでいる。つまり「作者の考え」と一致しない考えについて「不適当」「誤り」とみなす考え方がこうした教育によって育ってしまっている、というものだ。

余談だが、私は両親から「作者の考えは何か」という問題が出題されていたらそれらをすべて「問題作成者の意図は何か」という言葉に置き換えて考えるように指導されていた。いつの間にかこれがすっかり習慣として定着していたから、はっきりとは覚えていないがおそらくは小学校に上がった年齢のときには言われていたはずだ。おかげで私は「原作(者)至上主義」的な考えに陥ることなく思考できるように育った。

閑話休題

アニメについて論じるのは難しい、と思わせる要因についてここまで述べてきた。アフィリエイトとの相性のよさというメリットがあるにも関わらず誰もがこの話題に飛びつかないのはこういったことが背景にあるからだろう。しかもいい加減な「にわか知識」をうっかり披露するだけで「炎上」しかねない分野(それだけ作品を深く愛しているファンが存在するということ)であるために、記事の執筆にはいつでも細心の注意を払わなければならない。

「おそ松さん」に関連する記事を執筆し続ける中で、私はある課題にぶつかった。女性にのみターゲットを絞った作品と決めつけて結論ありきの評価を下す人々の存在だ。こういった人たちに対して作品の魅力や楽しみ方をどのように表現すれば伝えることができるだろうかと考え、作品をあらゆる角度から「読む」ことができるのだということを時間をかけて論じてきた。そこまで私が手間をかけるのは単にそういう「深読み」が好きであるというだけでなく、「おそ松さん」という作品をもっと多くの人に観てもらいたい、楽しんでもらいたいと思っているからである。それだけの魅力がこの作品にはあると信じて疑わないからだ。

また、アニメについて「○話で(視聴を打ち)切った」としながらも該当作品について我が物顔で意見する人々もいる。私はこういう人を見るたびに「あなたが視聴していない回にこそ作品の真骨頂を見ることができたかもしれないのに」ということを考えてしまう。中にはその回で切ったとする○話にこそ大きな意味を見出すことができたのではないかと思われるケースさえある。たとえば「おそ松さん」を「1話で切った」という人々がいる。私はこれに類した意見を見るたび自分の目を疑う。アニメを観る視聴者を煽りながら好き放題に物語を展開し、その上で作品世界を破壊する。この回ほど「おそ松さん」という作品全体を通じた物語の構造をわかりやすく示している回はないとさえ私は考えている。それにも関わらず「女性人気の高い男性声優を起用し、女性に媚を売っている内容であるから嫌だ」といった理由を挙げて視聴を取りやめてしまった人々がいる。それが残念でならない。

大事なことなのでいくらでも書くが、「おそ松さん」において「イケメンに魅了される女性」は滑稽な存在として描かれている。つまりそういう女性に対して媚を売っているどころかむしろ滑稽で笑われるもの(ギャグ要素)であると煽っているのだ。「おそ松さん」ではこういう女性だけでなく「藤井寺球場跡地を夢のような場所」と捉える人々についてもどこか面白おかしく描いている(「おそ松さん」第17話「十四松まつり」より)ことから、その対象としている視聴者層の範囲が広いことがわかる。こういうことをブログに綴ることで作品の魅力について深く掘り下げようと思う人々を増やし、ファンを拡大していきたいと願っているのだ。

アニメについて語ることはこれまでに挙げたような要因があるために難しい。謂れのない誹謗中傷を受けることも少なくない。それでもなお私がアニメについて語るのにはそれなりの理由がある。アフィリエイト(あるいは有料記事)のために書くという行為を否定する気はないが、自分の中で噛み砕き、深められるだけの「なぜ書くか」という理由付けができていないと人の心を動かす文章というものは書けないだろうというのが私の持論だ。

私の「おそ松さん」考察記事を読んで、「私も何か文章を書いてみようと思います」という感想を寄せてくれた方もいる。そういった方々を意識しながら今回このような記事を書いた。参考になるところがあれば幸いである。

ちなみに来期のアニメでは「宇宙パトロールルル子」に期待を寄せている。「おそ松さん」に関する徹底考察と投資を続けつつ楽しみたいところだ。

 

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作品の評価を下すのは個人であって属性ではないという話

はてなブックマークのホットエントリーに「おそ松さん」に関連する記事が浮上していた。しかし、その内容は「面白いと感じない」というものだった。毎週非常に面白おかしく作品を楽しんでいる者として、そういう方の感想が気になったので目を通してみたのだが……その記事について思うところがあったので今回はそれについてごく簡潔に言及することにした。まず、当該記事の一部を以下に引用する。

お、お父さんにはちっとも「面白い」と思えないのだが・・・ でも息子も爆笑している・・・ よ、嫁は?・・・新聞読んでて興味がないようだ。 「あぁ、歳を取るとこう言うのでは笑えなくなるんだな・・・」と。別に「おそ松さん」がダメなわけではない。 ただわたしは笑えなかったというだけの話。 他のみんなが面白いなんて言ってるものを見たり読んだりしても「そうでもないなぁ」と言う事が増えた。

これが歳を取ったということだろうか?「おそ松さん」ってアニメが面白いと感じない。 - 攻めは飛車角銀桂守りは金銀三枚

「笑えなかった」作品のアフィリエイトリンクを貼り付けているのがおそらくこの記事最大の笑いどころ。

……冗談はさておき。

どうもこの方は「おそ松さん」の18話だけを視聴して記事を書いたようなのである。よりにもよって18話だけを視聴するなんて……それでは「おそ松さん」の良さがわかるわけはない!!私も先日この18話を視聴したのだが「最終回にしてもおかしくない内容」であるという感想を抱いた。この18話は、17話までに登場した細かなネタや他作品のパロディーを随所に散りばめた上で、これまでに登場したキャラクターたちが「アニメの主役をもぎ取る」というメタフィクションのオールスター戦を展開する、という内容。つまりこの回だけを見ても「おそ松さん」がよくわからないのは当然のことなのだ。

さらにこの18話、放送直後はその内容のみならず「作画」もファンの間で話題となった。というのも枚数を使った派手なアクション作画を得意とすることで定評のあるアニメーター・松本憲生さんが原画に加わっていたため。ギャグアニメを見ていたことを忘れさせるダイナミックな動きに思わず恍惚としたほど。

「おそ松さん」という作品は各話ごとに物語の「色」が大きく異なる物語だ。ファンの中でも「どの回がイチオシか」を問うとばっさり意見が割れるほどである。

個人的に、これまでの物語をすべて観るだけの時間がないという方にはひとまず以下の回の鑑賞を推奨している。

第2話「就職しよう」「おそ松の憂鬱」
第3話「こぼれ話集」
第5話「カラ松事変」「エスパーニャンコ」
第7話「トド松と5人の悪魔」「4個」「北へ」「ダヨーン相談室」
第10話「イヤミチビ太のレンタル彼女」
第16話「松野松楠」「一松事変」

3分の1にまで絞ってみた。これだけ観てもものの3時間。とにかくあっという間に経過するので意見するより前にまずはこの回だけでも視聴していただきたい。すべて見た上でつまらなかったらあなたの感性とはマッチしなかったというだけのことだ。さようなら。

ちなみに選定基準は「『おそ松さん』という作品を通して制作側がやりたいことが強く感じられる回である」こと。無論、それがまったく感じられない回など存在しないのだが個人的に作話意図が「わかりやすい」と感じたものをピックアップしている。まだ「おそ松さん」を観ていないという方でなおかつ時間があまりないという方はぜひこれを参考にしていただけたら幸いだ。そして時間が出来次第、すべての回を観ていただきたい。

だが私が今回この記事を書いたのは「歳を取るとこう言うのでは笑えなくなるんだな」という表現から感じる「逃げ」の姿勢に対する批判を述べておきたかったことが大きい。

単に自分の好みに合わなかっただけのものを「年齢」「性別」といった自分の属性を理由にする語り口が存在する。たとえば「腐女子に人気のある作品のことが男の自分にわかるわけがない」といった表現だ。こうした言説を前提とした「男でもわかる」ということを売りにした解説動画も存在するようだが、私はこういう表現を見るたびにひどくがっかりするのだ。

作品の内容を評価するのは個人であって、属性ではない。支持基盤が特定の層に集中することがあっても、そのことを絡めて作品の評価を下すのは好ましくないというのが私の考えだ。なぜ自分自身の意見を口にすることをそんなに躊躇うのだろう。

この方に限った事ではないのだが「歳をとるにつれて面白いと感じるものが減った」という言葉を見るたびに「年毎に感受性が低下して作品の良さを理解できないことが増えた」という言葉に勝手に置き換えて読んでしまう悪癖を私は持っている。しかしだ、実際そう読めはしないだろうか。自身の感受性が低下したために作品の良さを見つけられない状態をいったいなぜ「年齢」や「性別」のせいにしてしまうのか。あなた自身の問題であるだろうに、と思う。

もちろん好きな作品の傾向ががらりと変わったがために特定のジャンルの作品の良さがわからなくなるようなこともありうる。しかしその場合は「私の好みが変わった」からであって、年齢のせいでは決してない。人生のうちでいろいろなことを経験する中でものの考え方、感じ方が変化したことを「歳をとったから」の一言で説明しているつもりなのかもしれないがそれはまったく説明になっていない。

「おそ松さん」という作品を「女性に媚びている」と決めつけて評価を下そうとする人が散見される。しかし、BLを愛好する「腐女子」である私がこの作品に対して抱いている印象はこれとはまったく異なっている。

「おそ松さん」は作中のキャラクターのみならず、アニメを作る側/観る側の人間も滑稽なものとして描こうと試みている作品だ(と私は理解している)。

アニメそのもの、そしてアニメを作る側/観る側の人間に対する批判がこの作品の随所に散りばめられている。それが特にわかりやすいのが円盤未収録の第1話「ふっかつ!おそ松くん」、第3.5話(円盤のみ収録)「松汁」、第7話「ダヨーン相談室」、第16話「松野松楠」、第18話「逆襲のイヤミ」など。なお、この点については「おそ松さん」終了後に可能な限り丁寧な考察を試みるつもりでいるのでここではその詳細は述べない。

ひとまずここでは「女性に媚びている」と一部の人に思わせている表現そのものがむしろ視聴者側を批判するような表現である、とだけ留めて表現しておく。F6に興奮するトト子を「滑稽なもの」として描いている時点でそういう読み取り方が可能である点は言うまでもない。

「おそ松さん」は決して女性だけを対象とした作品ではない。若年層だけを対象とした作品でもない。これだけはしつこいほどに書いておく。そしてその良さが理解できなかったとしても「性別」「年齢」を理由にして批判を述べるのは浅薄というもの。

ということを主張したいがためにこの記事を書いた。もし自分の属性だけを理由に取り上げて物事を語った経験のある方はこれを機に考えを少しでも改めていただければ嬉しく思う。

 

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ジャケットは次男・松野カラ松

松野一松の「エンターテイナー」としての性質から「一松事変」を読む

今回の記事では「おそ松さん」における松野一松の描写で、私が個人的に好きなところ・注目しているところをいくつか挙げていくことにする。もっとも、私の「推し松」でもある松野一松については今後全セリフをまとめながら、その言動について事細かに考察をしていきたいと思っているのだが、その前段階としてごく一部を取り上げてみようと試みたわけである。

松野一松は「エンターテイナー」である

第6話Aパート「お誕生日会ダジョー」において、一松がカラ松をバズーカ砲で撃つ場面がある。これはカラ松が「ここで働くってか……旗だけに」というダジャレを言った「ツッコミ」としての機能を持つ行為だと理解できる。というのもそれより以前の場面で「はた迷惑はごめんだぜ」とカラ松が発言した場面では全員がそれを無視し、完全に「スベっていた」ことがある。これを受けて松野一松は救済策(?)としてバズーカ砲で撃つことにより「爆破オチ」的に処理した、という考え方ができる。

私がこの場面をとても好きなのは彼の「エンターテイナー」としての性質がよく現れている一場面だというように捉えていること、そしてカラ松のギャグが完全にだだ滑りするのを阻止してあげているというほんの少しの優しさを垣間見ることができるからである。

松野一松が意外とノリがよく、人(兄弟)を楽しませようというエンターテイナーとしての性質を持っていることは他の回を見ても明らか。

たとえば14話Bパート「トド松のライン」。冒頭では屋根の上でポエマーと化しているカラ松を猫を使って落とすことによって文字通り「オチ」をつけさせて、さらには「羊たちの沈黙」のレクター博士をモチーフにしたと思われる「一松博士」に衣装・背景セット完備の上で扮しているという高いエンターテイナーとしての実力を見せつけた。

私は彼がここまでしておもしろいことをやろうとするのには「暇・退屈」を極度に厭う長男おそ松の影響が及んでいるところが多分にあるのではないか、と睨んでいる。

「童貞の成人男性」としてのキャラクターが持つ固定観念

第16話Bパート「一松事変」における描写で私が個人的に注目した場面がある。それが「おそ松の前で革ジャンを脱ぐ(ことによって体型の僅かな差異などからカラ松ではないことを見破られる)ことを恐れた一松が、服を脱がずにその場をやり過ごそうと試みる」というシーンだ。

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▲第16話Bパート「一松事変」より。その場をやり過ごすために嘘を重ねていく一松が、カラ松の格好をしたままおそ松に告白をしてしまうという場面。(参考画像はテレビアニメ「おそ松さん」Ⓒ赤塚不二夫/「おそ松さん」製作委員会より)→公式サイトはこちらから

「一松事変」のこの場面から、一松のジェンダー観が読み取れる。すなわち男性の同性愛者(ゲイ)に対してどのようなイメージを抱いているかということがわかるのである。極端な内股になりながら、頬を赤らめ、両手を胸の前できゅっと握ったこのポーズはこれでもかというほどステレオタイプで塗り固められた「女々しさ」そのもの。これは一般に「オネエ系」という言葉で総称されるような男性をイメージした行動であろう(もっとも私は「オネエ系」という表現を好まないのだが、これといってほかによい表現も浮かばなかったのでここではそのように表記している)。一松は男性へ恋愛の情を抱く男性に対してこれでもかというほど女性的なイメージを重ねているということがこの場面からわかるのである。

「一松事変」を視聴した人からは「腐女子に媚びている」という声も上がっていたようだが(当時のTwitterのタイムラインを参照した)、私としてはそうは思わない。もしこの表現に対して異議を唱えるのであれば男性の同性愛者をオネエ系として安直に描きすぎな点を指摘する方が先ではないか、と個人的には思うのである。

女性である私が知った素振りで書くのもどうかと思うが、男性の同性愛者の人々にも当然ながらいろいろな人がいる。LGBTの参加する集会にも何度か参加したことがあるが、男性同性愛者の中ではむしろマチズモ的思想の方がよく採用されているような印象さえ受けた。もちろんこれは私の観測範囲内の話であるから、すべての男性同性愛者にこれを当てはめるものではない。ただ、男性の同性愛者をオネエ系と安直に結びつけることに対して違和感を持つのはこういう事情を幾度となく見てきたという自身の経験からである、ということを示すために例として挙げた。

そして、もっといえばこういう「男性同性愛者=オネエ系」のような認識をしている松野一松というキャラクターの属性が「童貞の成人男性」として設定されているということに注意しておきたい。

この「一松事変」という作品に対する批判としては「腐女子側の目線に寄りすぎ」という内容のものが目立っていたが、私としては「童貞の成人男性」という6つ子たちの属性に極めて近い境遇にある人々が、ステレオタイプそのままに描かれる「童貞の成人男性」の描写に対して違和感を表明するというムーブメントは生じないのか、ということばかりが気になった。

一松のこの「男性同性愛者=オネエ系」という安直すぎる固定観念の他にも、これまで「童貞の成人男性」であるキャラクターたちが持つ固定観念を「おちょくる」内容の描写がいくつも登場した。DVD、Blu-ray第1松に収録された3.5話Bパート「童貞なヒーロー」ではそもそも童貞であることそのものをネタにするというような物語が展開された(ちなみにこの「童貞なヒーロー」において、松野一松はなんやかんやあったのちに「童貞ゴッド」へと進化してしまう。兄弟の中でもっとも「こじらせている」ように描かれがちなのが一松なのである)。

これに関する批判、つまり男性の性をネタとして消費する内容であり不適切であるというような指摘を見かけていない。もっと頻繁に見る機会があってもおかしくないと思うのだが。

ちなみにこのシーンでは、男性ファッション誌を参考にした「男らしいファッション」を追求するカラ松の服を身につけた上で極端なほど女々しいポーズをとってその場をやり過ごそうとしている、そのギャップを「笑い」に変換しようと試みた場面ではないかと私は理解している。

そのためここまでこのような内容で書いてはいるものの、男性同性愛者そのものをギャグにした内容ではない(服装とポーズのギャップに面白さを見出そうとした試みである)という理解をしているということを示しておく。

 一松はカラ松を捨てて保身に走ったといえるのか?

「一松事変」において、互いの服を着替えようとした一松とカラ松が半裸の姿で倒れている様子をおそ松が目撃してしまうという場面がある。二人がただならぬ関係にあるように誤解されかねない状況に慌てたカラ松はおそ松に弁明を試みるが、一松が「やめてよカラ松兄さん」と発言したことでおそ松はピシャリと襖を閉めてしまう。

この描写を「自分を助けてくれたカラ松を見捨てて保身に走った」と捉え、一松に対して「ひどい」と激怒する主旨のツイートをいくつも読んだ。しかしながら私としてはそうではなかったのではないか、と考えている。一松には別の意図があったのだと推測したためだ。

これまで述べたように一松は「エンターテイナー」として笑いを追求するような節がある。そしてその彼は男性の同性愛者に対して「オネエ系」のイメージを重ね合わせている。そしてそういう人たちがしばしばテレビ番組等でそれを「ネタ」にする姿をしばしば見ることができる。私としてはこういう認識はあまり好ましいものではないと思うが、一松の中で「この方向で展開すれば『おいしい』」という咄嗟の判断が働いていた可能性は完全に否定できるものではないと考えている。たとえばニコニコ動画Twitterでは腐女子が厭われる一方で「ホモネタ」をおもしろおかしいものとして取り扱う男性たちの姿も散見される。もちろん、場をやりすごすために彼が保身に走ることも決して少なくない。ただそれだけを彼のすべての言動に対して当てはめて考えるのは浅薄ではないか、というのが私の考えだ。

つまり、一松はこの場をやり過ごしつつ(ギャグ的に)「おいしい」展開に運ぶために敢えて「やめてよカラ松兄さん」という発言をしたのではないか、と想像することができるのである。もっともこれは私が彼に対して並々ならぬ好意を持っていることに由来する解釈であるから、反感を抱く人もいるかと思う。ただ保身のためだけではない可能性もある、ということを指摘したいがために書いたので物語読解の一つの(個人が導き出した)アンサーだということで読み流していただければと思う。

 

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